敬天愛人 西郷隆盛と銅像の由来
(これは上野西郷隆盛像の右後ろにある由来掲示物を書き写した物です)
敬天愛人
西郷隆盛と銅像の由来
西郷隆盛は文政十年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島治屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。
若くして薩摩藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回。
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敬天愛人 西郷隆盛と銅像の由来投稿者 上野近く 日時 2004 年 1 月 03 日
元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年(1867年)12月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。
その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟の請を容れて江戸城の無血開場を実現、江戸を戦禍から救ったことはあまりにも有名である。その後は、故郷に隠遁したが、明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主導的役割を果たした。
然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上るや断固反対して、大使派遣による平和的修交を主張し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。私学等を興して後年青年の育成に努めた。
明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に推せられて西南の役となり、転戦7ヶ月余り、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日享年51才。
そのため一時逆賊とされたが、明治22年2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。
この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友美が同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を得て、明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。
西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお敬慕される所以は実にここにあるのである。
裏
西郷隆盛銅像由来掲示物協賛御芳名
(たくさんの名前)
平成8年12月吉日
(注:上記数字はすべて漢数字で記されておりました。)
台座の向きがほぼ南向き。台座から30度程度東の方を向いておられました。
西郷隆盛像と地図(縮尺を1/7.5万にすると皇居との位置関係がわかります)
西郷隆盛と征韓論 教科書と銅像由来の違い投稿者 上野近く 日時 2004 年 1 月 03 日
銅像由来では、
>然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上るや断固反対して、大使派遣による平和的修交を主張し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。私学等を興して後年青年の育成に努めた。
はて?
銅像の説明には、この掲示板で書かれているように「西郷は征韓論を主張し」とは書いて無く、「征韓論に断固反対して」と書いてあります。
おかしいな。
高校では日本史のの勉強など全くしていなかった私は、教科書になんと書いてあるか確認するために、早速神田の三省堂の教科書・参考書売り場で確認してきました。
たしかに、大学受験教科書・参考書等受験資料には、「西郷は征韓論を主張し」と書いてありました。
ここでも歴史をねじ曲げて教えることになっているようです。
上野近くさんの投稿へのレス投稿者 リーマン 日時 2004 年 1 月 07 日
由来掲示物本文の中身にもびっくりしました。この掲示物の文章は活字では本邦初公開なのではないでしょうか。
おそらくはお気づきの通り、この文章は、この銅像を訪れる人に向けて書かれたものであると同時に、西郷さんの御霊に対してささげている文章でもあります。
西郷さんの御霊が怨霊とならないように、「現世の人間は、キチンとあなたのことを理解していますよ。」というメッセージであるかのようです。
また、このような西郷さんに向けられた言葉が、銅像が建立されてから100年も経たなければ明らかにされない(出来ない)という事実にも重たいものがあるように思われます。
一方で、この文章の最後の段落である
「西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお敬慕される所以は実にここにあるのである。 」
の部分には、欲をいえば不満をもたざるを得ません。
「敬天愛人をとなえた仁者だったから日本人に愛されている? どうしてそんな奥歯にモノの挟まったような言い方するの? 単刀直入に、(日本が外国の植民地になることから救うべく自分の命を人柱にしてまで戦ったから敬慕されている。)ってはっきりいいなよ。」〜と突っ込みを入れたくなってしまいます。
西郷さんを慰霊するためには本当のことを書かなければならないけれども、種々の事情から全ての本当のことをしゃべるわけにはいかず、ほんのちょっぴりのウソ(ごまかし)とホントを巧みに混ぜて文章を練り上げる、という手法は、法隆寺の釈迦三尊像の光背文が書かれた昔から連綿と続くものであるに違いありません。
(小室直樹が、将来田中角栄の神社ができるだろう、とどこかで書いていましたが、 その際の神社由来の作成にあたっては、西郷さんの銅像の例が参考にされるでのしょうね。)
上記のような内容で由来掲示物を書き直すためには、日本が真に独立し現在の国家体制が様変わりとなる時代まで更に100年ぐらい待つ必要があるのかもしれません。
尚、前回の投稿で私はこの銅像の建立時期を日露戦争後と書きましたが、上野近くさんの投稿により、日露戦争前であることが判明しましたので、訂正させていただきます。
追伸
西郷さんの銅像の向いている方角は、南よりちょっと東ということでいいようですね。
やはりこの方角しかなかったように思います。
皇居にまっすぐ向かわせるのは、なんだか睨まれているようで怖いし、かといって後ろを向かせて立たせるのも、西郷さんの顔が見えないので不安で、これまた怖い。
さりげなく斜め横を向いているぐらいが一番安心してみていられる。
また、上野という場所も皇居との距離(遠くも近くもない)を考えると適切である。
つまらない話のようですが、当時の元勲たちは結構真剣に検討したのではないか、と思います。
7/11/8

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