米大統領選のヒラリー・クリントン候補の選挙戦は、民主党指導部の裏工作に関する電子メールが流出したことで混乱に陥った。予備選でクリントン氏に肩入れしようとする動きがあったとみられるのは、党にとって不面目であるばかりか、同氏に敗れた対立候補バーニー・サンダース氏の支持者を怒らせ、党内の分裂を深めるものだ。だが、共和党も喜んではいられない。電子メールの流出にロシア政府が関与していた可能性がある点を、共和党もやはり重く受け止めなければならない。ロシアが長い間繰り広げてきたサイバー攻撃が深刻にエスカレートしたことを示す事態だ。
ハッカー攻撃の犯人を特定するのは極めて難しい。犯罪集団や政府系組織に外注する傾向があるロシア政府の場合は特にそうだ。しかし、サイバーセキュリティー会社が信頼できる証拠を示して、米民主党全国委員会のネットワークに侵入したハッカー集団を特定している。APT28、APT29の名で最も知られているグループだ。ハッキングの手口、活動の時間帯、過去の標的からロシアの政府か情報機関との強いつながりがうかがえるという。これまでにもホワイトハウス、米国務省、東欧諸国の政府、北大西洋条約機構(NATO)などを標的としてきた。
ロシア政府としては新しい戦術ではない。すでに2007年の時点でエストニアが、国内の銀行や政府機関、通信会社のウェブサイトをまひさせるサイバー攻撃に遭っている。ジョージア(グルジア)は08年の戦争勃発直前に政府機関のサイトがサイバー攻撃された。もちろん、米国を筆頭に多くの各国政府も情報収集や安全保障上の脅威への対処に同様の手法を用いている。
■事実なら米民主主義への不敵な攻撃
懸念されるのは、ロシアが入手した情報を現実世界の事象に影響力を及ぼそうとする傾向を強めている点だ。冷戦時代の盗聴と脅迫という手法が、ソーシャルメディアとウィキリークスの時代に入って新たな危険の可能性を帯びた。ロシア政府は旧来のスパイ技術に偽情報戦の戦術を加え、他国に混乱を引き起こして人々の政府や当局に対する信頼を阻害しようとしている。
ウクライナがそうで、ハッカー集団が14年の選挙をかく乱しようとした。ロシアはシリアでも、情報の流れを統制してロシア軍の作戦規模を隠すために、反政府勢力や非政府組織に大がかりなサイバー攻撃を行った。ロシア政府が米民主党全国委員会の電子メール流出に関与していたのが事実なら、米国の民主主義制度の中核に対する大胆不敵な攻撃を意味する。
西側社会に数々の亀裂が入り脆弱な状態になっているだけに、ことさら危険な事態だ。ところが、効果的な対応策を見いだすのは非常に難しい。
米政府には、民主党の失態を示す情報流出について抗議できる余地はほとんどない。さらに総じて、この種の攻撃に技術面で効果的な守りを固めることはとても難しい。外交面では、米国はある程度の成功を収めている。サイバースパイの禁止に関する中国との合意は、少なくとも効果を生んでいる。しかしながら、合意が成立したのは中国政府が実態の暴露を恐れ、商業的利益の維持を強く望んだからだ。米国はロシアのプーチン大統領に対し、そうしたテコを持っていない。ロシアに対する制裁は既に実行されている。抑止は言葉でクギを刺すことだけだ。
今回の情報流出で、クリントン氏は選挙戦に打撃を受けるかもしれない。しかし、共和党候補のドナルド・トランプ氏も浮かれてはいられない。これはむしろ、米国が環大西洋安全保障への関与を弱めるべき時ではないと注意を促しているものだと言えよう。
(2016年7月26日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
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