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「古代イスラエル」がコメントにありましたので

とりとめのない詩

 

 

読み手に気づかれなかった詩は

ひっそりと自分の身体を解いてしまう

 

そして一本の線の集まりになって

風に吹かれて消えて行く

 

カレンダーが五十音のようになって

数字を並べている

 

忙しさがカレンダーの象徴であるなら

いまの僕は十分に休息を保っている

だが

どう休息していいのかわからない

 

何も書かれていない真っ白な紙があると

責任のように文字を連ねてしまう

春よ

君の訪れのように僕の言葉は蕾を膨らませるのだ

 

一夜を越えて書きあがった詩を眺めるときに思う

眠れない詩人よりも眠らない詩人でありたいと

 

真夜中に張り詰めていたギターの弦が

ひとりきりでプツリと切れる

 

という書き出しはどうだろうか

 

あれは金曜日が花束のようにやってきた日だった

 

と書くのはどうだろう

 

歌が無限であるように詩も無限なのだ

 

日本の文化の根底にはイスラエルがある

僕たちは気づかないうちにヘブライ語をたくさん喋っている

 

と考えながら書いて来たこれまでの詩にも

彼方ヘブライが混ざり合っている

 

すべては混ざり合っている

単一化されたものなどどこにもない

 

気持ちはひとつと言うが

様々な気持ちや経験が混ざり合ってひとつになっている

ひとつとは言葉が見せているだけのマジックにすぎない

けれど

ひとつになりたいと語る言葉には嘘はない

 

と書けば共鳴してくれるだろうか

それとも冷めた人間に思われるだろうか

 

そう書くことで保身しながら

言葉の景色にはいつも気を配っている

 

もうすぐ夜が明ける

この詩に気づいてくれるのは誰だ

 

 

散文詩

僕の、散文詩はね。

新しくできあがったものを、順に載せているわけではないんです。

ここ、2年間で130以上の作品が生まれました。書き連ねているブログの反響を受けてや、世間の流れで決めているわけではありません。ホントに、ふと目についた作品を掲載しているだけです。なので、流れにそぐわない、空気を察してない作品が現れることがありますので、あまり気にしないでください。

 

とても、気まぐれです。毎日じゃないときもあるし、1日に2作品、3作品のときもあるでしょう。ブログを更新しない日もあるかとは思いますが、そういうものだと思っています。

 

明日は(もう今日か)、書けるかどうかわかりません。また、移動いたしますので。マスコミには、アルバムのプロモーションの時に、騒いでもらいたいものだと思っています。

 

そういうのには、興味はないんだろうなぁ。

そこに向かって、頑張ろうとしてるのに。

 

みなさん、おやすみなさい。

ASKA

 

 

歩く人が歩かない

歌う人が歌わない

語る人が語らない

世の中はすっかりそうなってしまった

 

誰しも自分が可愛いのだ

痛みを避けながら今日を生きてる

それを責めることは誰にもできない

 

口を開くときには

包帯を用意してから言葉を投げる

 

偉大さを求めてはいない

心の隅では騒ついているはずなのに

革命が革命を拒絶している

 

反逆者のような目をして

挨拶をしてくる人がいる

僕はその目を見逃さない

 

だが

それは正解なのかもしれない

争わないために身につけた防衛なのだ

 

言いたいことは言うのだと

言い放つ人がいる

思ったことを伝えるのとは違う

 

その人の美学なのだろうが

僕には苦手な人でしかない

 

言葉は上手に使わなくてはならない

感情を表す手段ではない

 

遠い戦場の兵士の指先に触れる

引き金のように慎重にならなくてならない時がある

 

水の光が生きてるみたいに伝えたい

心の余白がいっそう白く感じるように伝えたい

 

僕には

言葉の裏側に刃物を忍ばせる人に言いたいことがある

 

あなたは歩く人ではないと

あなたは歌う人ではないと

あなたは語る人ではないと

Ella Fitzgerald

今、詩を書きながら、

Ella Fitzgerald

を、聴いています。ジャズシンガーです。デビュー5年を過ぎた辺りで、このシンガーと巡り会いました。クーラーの効いた真夏の部屋で、Ellaの曲を聴くのが、最高の贅沢でした。それだけではなく、クリスマスにもピッタリなのです。僕が、「tomorrow」を書いたときに、プロデューサーの山里から、

 

「何だっけ?このメロディ。誰かの名作を感じるんだよなぁ・・。」

 

結局、分からぬままで、レコーディングは進みました。それから、10数年後、久しぶりにElla Fitzgeraldを聴いているときに、ハッとしたんです。「Someone To Watch Over Me」でした。こんな、感じで、知らず知らずのうちに影響を受けているものなんですねぇ。

 

iTunesで、ダウンロードして聴いてみて下さい。本当に、素晴らしい声、メロディですから。アルバム全曲が、このようなテイストで収められています。

ASKA

 

 

僕は言葉を自由に操りたい

それが僕に残された最後の生き方なのだと

 

「もう十分生きたからさっさと逝くね」と

身体を壊した母が言う

 

「一ヶ月に一度は帰ってらっしゃい」

顔が見たいのだと言う

 

今年に入ってから僕は

それを忠実に守っている

 

そんなことを考えている傍で

買ってきたばかりの百合の花を妻がハサミで切っている

 

真っ白なゆりの花はすぐに黄ばんだ色になり頭を垂れる

綺麗なうちにどれだけ観てあげられるのだろう

 

子供の頃周りは誰もが貧しかった

なので貧しかったという記憶はない

 

ある日台所の不動明王を飾ってあった棚に

忘れられたかのような五円玉が置いてあった

 

ちょうどそれは目の高さのところにあった

託された葛藤

僕はその五円玉を盗んで駄菓子屋に行ったのだ

 

日が暮れるまで遊んだ後

夕暮れのカラスのようになって家に帰ったら

母は玄関に仁王立ちになって

僕の頬を打った

あの頃の強い母はもういない

 

小さくなった母の手を引き

母の歩幅に合わせて歩く

間もなくそれもできなくなるだろう

 

僕は僕の人生に大きな借りを作ってしまった

この借りは何としても返さねばならない

 

時代のハンドルを握らねばならない

残された時間はそれほど多くはないのだ

 

「母さんが元気なうちにオマエの歌う姿を見せてやれ」と父が言う

その約束は果たせるだろうか

 

やがて囲いから解き放たれ

僕が無心に歌を歌っている時

母はどこでそれを見ているのだろう

 

 

1ヶ月間

今日の、アクセス、コメント数に驚いています。物見遊山の方たちも多いでしょうね。いずれにせよ「ありがとうございます」という言葉しか、出てきません。

 

ブログ開設時は、1ヶ月で、10万アクセスあれば幸せなことだと思っていました。謙虚に言っているわけではありません。本当に、そう思っていたのです。

 

温かい励ましのコメントは、沈んでいた僕の心に勇気と活力をくれます。ダメなことに遭遇した場合、直ぐに迂回する賢さと要領の良さは、僕には無いようです。それは、子供の頃からそうでした。飛び越えられない川があったとしても、橋を探すことはせず、「次は飛び越えられるかもしれない」と、何度も挑戦してしまうのです。

「夢の斜面見上げて、いつかは行けそうな気がするから」と、

on your mark”で歌いました。これは、性格、性分というやつで、魂によく似たものであり備わったものなので、これからも変わらないと思うのです。

 

厳しい意見に、目を背けるつもりはありません。そのための全解放コメント欄です。胸に突き刺さるものもありますが、覚悟というものはそのために用意されています。言葉足らずで、誤解されているなぁと言う気持ちも生まれています。しかし、その手の意見は、世間一般の考え方として、もっともなものであり、僕なりに受け入れているつもりです。僕には、その場をクラッシュさせないために「相手を認めろ」と、いう考え方があります。たとえば、トラブル、摩擦は、自分の主張をやり投げのように放り投げたときに、生じやすいと思っています。相手にも、意志、主張があります。それを「認める」ことによって、おおかた解決されます。心を柔らかくするということでしょう。

 

今日、明日中に200万人、いや200万回のアクセスとなります。コメントは膨大ですが、コメントをされない方は、もっと膨大です。サイレントマジョリティの方々です。実は、こういう方の心の動きに、敏感になって文字を走らせなければならないと思っています。

 

「夢を見るのはひとりでいい」。

これに、反応された方たちが多かったようですが、これは、山の頂を指示するということです。登り道は、みんなで考えればいい。そして、登頂できたときの達成感は、みんなで味わう。喜び合う。これのたとえとして書かせて頂きました。成功している多くの大企業、または大企業ではなくてもいい。それがなされるときは、この考え方によって実現を見ることが多いのです。

「船頭多くして船山に登る」

これによって、失敗、分解している人たちが、溢れるほど存在するのが現実社会です。

 

意外かもしれませんが、僕の欠点のひとつには「他人の言うことを聞きすぎる」「他人に、影響されやすい」と、いうのがあります。迷いが生じやすいのです。

これは、プロデューサーであるナベさんかも指摘されました。一度、景色が見えたのならば、そこに向かって突っ走る。その姿に周りは誘発されてついてくる。

なので、

「今を強く生きる」

そこにたどり着くための意思表明と受け取っていただければ幸いです。

 

「時期尚早」に対して「手おくれ」があります。2年間の焦燥期間がありました。顔を伏せていては、何も始まらないと考えました。スタッフ(曲)は、十分にあります。力も備わりました。後は、足を踏み出すだけです。一歩踏み出すと、当然向かい風が頬に当たります。そこで躊躇するのは、二歩目の勇気が備わっていないからです。二歩目の次は三歩めです。この実感を味わいたい。試したい。後は、何があっても怯まない。第一歩目が、このブログだったのでしょう。

1ヶ月間、お付き合い下さい。

ASKA