社会貢献でメシを食う。NEXT 竹井善昭
【第160回】 2016年7月12日 竹井善昭 [ソーシャルビジネス・プランナー&CSRコンサルタント/株式会社ソーシャルプランニング代表]

熊本からの支援団体撤退が早すぎ!
メディアが伝えない「復興の鍵」は?

復興支援ファンドによる被災地支援が評価され、岩手県から感謝状が贈られた野村アセットマネジメント、野村證券、野村信託銀行の3社。

 野村アセットマネジメント株式会社による投資信託「東日本復興支援債券ファンド1105」 が今年5月に満期償還を迎え、最後の寄附金22,916,413円が青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県の5県および仙台市に贈呈された。

 このファンドは、東北の復興支援を目的のひとつとして2011年4月8日に届出が出され、同年5月17日に約518億円にて設定された単位型の投資信託。復興に寄与すると考えられる政府機関・地方公共団体・企業の発行する債券を含む国内債券およひ国債を投資対象として運用するとともに、野村アセットマネジメント、野村證券(販売会社)、野村信託銀行(受託会社)の3社合意のうえ、決算毎に受け取った信託報酬の一部(ファンドの日々の純資産総額に 対して年率0.2%程度)を寄附するという商品だが、当時の状況とファンドの規模感を考えれば、かなりスピード感のある思い切った決断で組成された商品だと思う。

 被災地での評判も高く新聞でも紹介され、また社内での関心も高かったようで、営業部隊も使命感を持って販売。約45,000人の投資家がこの商品を購入した。この類いの商品では、非常に珍しいことだという。また、半分近くの約20,000人が、満期償還までの5年間、保持していたという。それだけ多くの投資家がこの商品の意義を理解し、ずっと保持していたということだ。5年間の寄附金の総額は 3億2491万6413円になるという。

 復興支援や事業というものは、長期にわたる。1995年に起きた阪神・淡路大震災の最後の復興事業が終了したのは、2011年の(まさに)3月である。16年かかった。こんなことは行政だからできることで、民間企業やNPOがそうそうできることではない。なので今回、野村アセットマネジメントが行った5年におよぶ継続的な支援は、民間企業ができる最大限の支援だろう。しかもそれを本業である投資のスキームを活かしてやってのけたことは、やはり特筆に値すると思う。これぞまさに「本業を通じた社会貢献」を越えた、「本業と社会貢献の統合」であり、数少ないCSVの成功例ではないかとも思う。

支援団体が続々と撤退する熊本

 さて、熊本である。東北の震災時には、多くの企業、団体が2年、3年と長期にわたっての支援を行なってきたし、ソフトバンク系の東日本大震災復興支援財団やYahoo!基金などのように、5年を超えて支援を続ける財団、企業もまだある。しかし熊本はどうか。復興支援が十分に行われるか危惧されている。支援団体の「撤退」が早すぎるのだ。5月には自衛隊がまず撤退した。支援活動で熊本に入っていた多くの団体も5月で撤退した。残った団体も、この夏に撤退を決めているところが多い。

 震災発生から3ヵ月。もちろん、支援ニーズがなくなっての撤退であれば問題はない。避難所から仮設住宅への移住も始まり、行政も避難者にそろそろ自立を促している。避難所には物資提供のコーナーがあり、飲料、食料からシャンプー、下着などの生活用品が山積みにされていたりする。ペットフードもあるし、携帯電話の充電コーナーもある。益城町の総合体育館ではいまも多くの避難者が暮らしているが、歩いてすぐのところにコンビニが営業しており、基本的な生活用品はたいていのものが買える。このような光景だけを見ていれば、熊本支援もそろそろ終わっても良いのかと思うかもしれない。しかし、そうではない。

 ご存じのとおり、益城町は震度7の激震に二度も襲われた。今回の熊本地震でも最も被害が大きかった地区のひとつであるが、その益城町の中心部を貫く県道沿いの商店街も、ほとんどの商店が全壊、半壊状態となるほどの壊滅的な被害を受けた。その商店街の一角の空き地にテントを張り、地元の自宅避難者を主な対象として支援活動を行なっている団体がある。「IKIMASU熊本」という、地元の支援団体である。

 益城町に行くたびにこのテント村(?)が気にはなっていたのだが、6月上旬のある日、その日は日曜日ということもあってか、いつも以上の賑わいを見せていた。それで、僕も車を駐車場に入れて、寄ってみることにした。

 そこでは、水や食料、食器、衣料品などの生活用品まで、さまざまな物資が提供されていて、自宅避難者の人たちが物資を受け取りに来ていた。年老いた夫婦がカップ麺を受け取ったり、幼い子どもを抱いたお母さんが洋服を選んでいたり。つまり、支援物資の私設配給所みたいな場だったので、現場にいた若いスタッフに「支援物資はなんでもいいのですか?」と聞くと「なんでも、ありがたいです」と言うので、ハンドクリームを提供することにした。

熊本の被災地支援で筆者が立ち寄った「IKIMASU熊本」のテント村。女性向けの三種類のハンドクリームを提供した

 翌日、ジョンソン・エンド・ジョンソン社会貢献委員会から支援いただいた三種類のハンドクリームを車に積み、再び益城町まで運んだ。そのときお会いした「IKIMASU熊本」代表理事の入江真由美さんの話は衝撃だった。「水も食料もまったく足りてない」と言う。「だから、自分たちで調達して、被災者に提供している」と。

 僕はそれまでさまざまな避難所を回り、水や食料が山積みにされているところを目の当たりにしてきたし、訪問する避難所からも「水や食料は足りている。女性には潤いが必要な時期だから、良い香りがするハンドクリームがほしい」などのリクエストも実際にもらっていた。だからハンドクリームや拭き取りシート、ブラトップなどを提供して回っていた。水や食料が足りていない避難者がいるなど、まったく想像できていなかったのだ。

 しかし入江さんの話によれば、「指定避難所では水も食料も生活用品も足りているかもしれない。しかし、自宅避難者には届いていない。水も食料もなく、風呂にも入れない人たちはまだたくさんいる」という。

 この話は僕にも腑に落ちる話だった。東北の被災地支援をしていたとき、ある漁師から聞いた話と共通していたからだ。その漁師の家は高台にあり、津波被害を受けることはなかった。だから避難所にも入ることもなかった。しかし漁船も漁具もすべて流され、仕事は何もできない状態がずっと続いていた。避難所に入った人たちには義援金も配られ、支援物資も届き、不自由ながらも食事や最低限の生活に困ることはなかった。だが自宅が残ったその漁師には、何の支援物資も届かず、1円の義援金ももらえなかった。僕がその話を聞いたのは震災から1年後くらいの時だったが、「この1年、ホントに苦しかった」と辛そうな、苦しそうな表情を浮かべてその話をする漁師の顔がいまも忘れられない。

 東北のいろいろな町の自営業者からも同じような話をよく聞いた。「どこかに勤めていた人たちには、失業保険などさまざまな支援がある。しかし店を流され、何もなくなった自分たち自営業者にはなんの支援もない」という話だ。

現場に行かなければ分からないこと

 なぜか行政は大きな災害時に、不可解な理屈や配慮のなさで被災者を苦しめる。東北のときもそうだったが、熊本でも同様だ。熊本地震の直後、ある避難所では飲料水が足りていなかった。そこと2人に1本、ミネラルウォーターを配ることになった。たとえば4人家族で避難していれば、その家族に対して2本という割合だが、では1人で避難してきた人にはどうしたか――実は、1人だと水はもらえなかったという。こんな話はマスメディアではあまり報道しないと思うが、実際に被災地に行けば、山ほど聞こえてくる。なんでもそうだが、現場に行かなければ分からないことがたくさんあるのだ。入江さんが語ってくれた話も、そんな現場でしか知り得ない話ばかりだった。

 たとえば、先週の7月8日のこと。「IKIMASU熊本」は南阿蘇村長野地区まで出向き、住民約100名に対する支援活動を行なっている。いまだに断水したままで、トイレも流せず、風呂もなく、給水ポイントもなく、給水車も来ない。そんな長野地区に、水2リットルを50ケース、麦茶のパック、男女ショーツ、男女下着、生活用品、ティッシュ等を届けているのだ。テレビのニュース等を観ていると、「そろそろ物資支援の必要はなくなったのか」と感じるかもしれないが、実はまだまだ必要としている人たちは多い。食料にしても、毎日、パンとおにぎりだけで生活しているという人も多いという。指定避難所にいれば、たまに外から支援団体が炊き出しにやってくるが、自宅避難者、とくに高齢者には、炊き出しもなかなか届かない。

 7月上旬に三度、僕が「IKIMASU熊本」のテント村を訪れたときは、近所に駐車している給水車に案内された。いつもそこに駐車されていて、僕らが行ったときは水も出たのだが、給水されないときもあるという。高齢のおじいさんが水をもらおうと、遠い道をポリタンク抱えて歩いてやって来るのに、水が出てこない。そんな光景が日常茶飯事だという。

 「IKIMASU熊本」にはFacebookページもあるので、一度覗いてみてほしい。そこには、メディアが伝えない「熊本被災地のリアル」がある。

 ところで、「IKIMASU熊本」のテント村にやってくる人たちは、みんなどこか楽しそうだ。そのことについて入江さんは、 「ここは、被災者の人たちの“心の安定剤”みたいな場所なんですよ。たしかに、いまはいろんなお店も開いているし、必要なモノは買おうと思えば買える。でも、スタッフに会うためにここに来る人も多い」と語る。水や食料は単なる物資ではない、ということだ。たしかにここには、ほかにはない独特のコミュニティな空気感がある。被災地には、そのような「心のケア」が必要なのだと思う。

 そんな話を入江さんから聞いた日は、7月上旬の晴天の日。日中の気温も35度を超えていたと思う。熊本の夏は本当に暑い。同じ35度の気温でも、東京のそれとはまったく質感が違う。日差しの強さとか熱気が、なんというか完全にストロングスタイルなのだ。強い。そんな暑さのなかで話を伺いながら、最後に「いま、最も必要なモノはなんですか?」と聞いてみた。

 答えは「製氷機」だった。これは、東北の避難所を訪れたときに、「ファッション雑誌がほしい」と言われた時に匹敵するくらい、意表をつかれた感がある回答だった。その一方で、熊本の猛暑のなかで言われてみれば、そのことの意味はすぐに理解できた。いまの熊本では、「製氷機」もまた、生きる糧なのだ。どなたか読者のなかで、製氷機を調達できる方がいたら、ぜひ「IKIMASU熊本」まで届けてほしい。

熊本復興のキーパーソンは?

 さて、まだまだ支援を必要としている熊本であるが、復興に向けて動き出している地元団体も数多い。そのなかで、キーパーソンになる人たちは誰か。ちなみに東北のときは、「若手漁師」だった。そして熊本は、「女性の起業家」だと思う。

 そもそも熊本には「肥後の猛婦(もうふ)」という言葉があり、パワフルで先進的な女性が多い。現在の男女共同参画社会の礎を築いたと言われるのは、益城町の矢嶋家で生まれた4人姉妹「四賢婦人」だ。熊本女学校を設立した竹崎順子(三女)、徳富蘇峰・蘆花兄弟の母である久子(四女)、横井小楠を支えた妻・横井つせ子(五女)、そして女子の地位向上の先覚者として知られる矢嶋楫子(六女)の4人だが、とくに矢島楫子は、東京の名門女子校・女子学院の初代院長としても有名だ。

 社会評論家の大宅壮一氏は、「熊本の猛婦たち」と題した評論で、熊本の女性についてこう論評している。「明治以後、婦人の自覚、独立、地位向上のために勇敢にたたかった婦人闘士の多くは、熊本出身である」。

 このような歴史と伝統があるからか、熊本では震災後に数多くの女性リーダーによる団体やネットワークが立ち上がっている。たとえば、「熊本市男女共同参画センターはぁもにい」などが中心となって立ち上げた、数多くの女性団体をネットワークする「熊本こども・女性支援ネット」。ここでは女性経営者たちが中心となり、シングルマザーの就労支援のための団体「一般社団法人スーパー・ウーマン・プロジェクト」も生まれた。

 前述の「IKIMASU熊本」の代表理事も女性だし、とにかく熊本の女性はパワフルで前のめりだ。以前から、熊本は女性社長の数が日本一だとも言われていたそうだが、震災を機に、社会を変える女性リーダーが一気に立ち上がった感がある。彼女たちの活躍こそが、熊本復興の鍵になるのではないか――。そう感じさせるほどの勢いである。

 最後に子どもたちの心のケアについて。今回のような大規模災害があると必ず心配されるのが、子どもたちの心のケアだ。もちろん、カウンセリングなどのケアが必要な子どももいるだろう。しかし、子どもたちは大人が考えているよりはるかに強い。そして、震災を経験したからこそ、成長する子どももいる。

 今回、熊本の女性支援活動を行なうなかで、一通のメールをもらった。東北の震災で壊滅的な被害を受けた宮城県の女川町に住む女子高生からだ。「震災のとき、女性に必要な物資が足りなくて苦労した。だから、熊本の女性のために募金活動をして寄附をしたい」という。だが、震災から5年経っても、女川町の住民の4割はいまだに仮設住宅で暮らしており、メールをくれた彼女も仮設住宅で暮らしているという。そんな女子高生が、熊本の女性のために募金活動を行おうと立ち上がったのだ。 

女川の女子高生たちが、熊本の女性支援のために行なった募金活動の様子。子どもからおばあさんまで、多くの人が協力してくれた

 6月下旬の日曜日。復旧した女川駅前の商業施設で、友人の高校生たちと総勢6名で募金活動が行なわれた。この日は東北復興のイベントが行なわれており、多くの人で溢れていた。津波で大きな痛みを味わった女川の人たちは、熊本の人たちに優しかった。幼い子どもたちから年老いたおばあさんまで、数多くの女川町民が高校生たちの募金活動に協力し、たった3時間ほどで5万円を超える寄附が集まった。

 集まった寄附金を僕に手渡すとき、リーダーの女子高生は少し不安げに僕に聞いた。「たったこれだけの寄附金が、熊本の女性のためになにか役に立つのでしょうか?」。

 僕は彼女に言った。「君たちが届けるのは、単なるお金じゃない。勇気と希望だ」。

 その後、熊本でこの話をした。すると、女性リーダーたちはみな口を揃えて、「その女子高生たちに会いたい! 熊本に来て、熊本の子どもたちに話をしてほしい!」と言う。

 震災時に小学生だった女川の子どもたちは、5年の歳月を経て、遠く離れた熊本で頑張る女性リーダーたちに勇気と希望を与える。そんな高校生に成長したのだ。子どもたちの心は強い。熊本の子どもたちも、きっとそうだ。そう信じていいと思う。