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現場に役立つ教育問答

「言う」の「いう」と「ゆう」、「行く」の「いく」と「ゆく」、どちらの表記が正しいのですか?

田中 雅和 (社会・言語教育学系 教授)

「正しいかどうか」を判断するためには、その「基準」が問題になります。

「言う」は、古く「いふ」と表記しましたから、伝統的な表記という歴史的正統性を基準にするなら、「いう」が正しいとすることができます。「いふ」が10世紀後半には「いう」と発音・表記されるようになります。それが広く一般化すると「いう」が「ユー」と発音されたり、聞こえたりするようになり、音声に引かれて表記も「ゆう」が現れてきたものです。

現代仮名遣いは、表音式(とされている)仮名遣いで、原則として発音に合わせて表記することになっていますから、現代仮名遣いに馴染んだ児童・生徒が、「ユー」と発音するのに従って「ゆう」と表記することも、ある意味で自然な反応ということができます。「ユー」「ゆう」については、どの程度一般的であるか、広く認知された社会性を帯びてきているかどうかが、問題となります。圧倒的多数が用いて社会性も強く持っている(或いは言語的体系が整っている)言い方は正しい、とする基準があり得るからです。それを確認する一つの方法として、活用形の体系性を見てみると、次のようになります。

「いう」の方はどれも自然で日常的に発音・表記に使っていると認められると思いますが、「ゆう」の方は人によって感じ方が違うはずです。活用形によっても、使用実態や感じ方が違うこともあります。「ゆう」(終止形)は使うが「ゆわない」(未然形)は使わないとか、「ゆった」(連用形・促音便)は使っても「ゆいます」(連用形・非音便)は使わないとか。「ゆう」は、発音(話し言葉)には使うが、表記(書き言葉)には使わない、という人も未だに多いと思われます。若年層ではそれも少しずつ変わってきているようですが。なお、「ゆう」の語も、地域や世代によっては、特に口頭語(話し言葉)の世界では、全活用形をほぼ整え始めている様子も見えるようです。

以上のように、「言う」は「ゆう」よりも「いう」の方が、現在でもなお優勢で、正誤に関しても「いう」が正しい、少なくとも規範的・本来的な表記である、とするとらえ方が優位にあると考えて良さそうです。ただし、個人的な意見としては、位相などの言語使用における個別の具体を考慮せずに、画一的に処理することには問題があると感じます。

「行く」と「言う」とは、問題の性質や言語的実態が全く異なります。

「行く」の意味の語として、上代から「ゆく」「いく」の両方が合わせ用いられていました。上代から既に表記の違いがある、つまり語形が違うのだから、両者は同義語の関係にある二語だとする捉え方もできます。今は詳細な検討と厳密な区別はおき、「行く」を意味する語の仮名表記と発音の問題としてみていきます。

上代から「行く」の意味で「いく」も「ゆく」も用いられ、両表記が併存していたのですから、伝統的な表記の歴史的正統性という点から見て、どちらかを正しくないとする理由がありません。どちらも正しいのです。歴史的な実態を付言すれば、使用頻度は中世まで「ゆく」の方が優勢であり、和歌や文字言語(書き言葉)においては、雅語的な意識も伴いながら、「ゆく」が多く用いられたと考えられます。

現代における使用実態を、「言う」と同様に活用形の体系性で確認しても、改めて示すまでもなく、両者共に全活用形が自然で日常的に発音・表記に使っていると認められると思います。従って、どちらか一方を、間違った言い方や表記であるとして、排除すべき理由が全くありません。ただ、促音便「行った」は「いった」であって「ゆった」ではないとか、「行方」は「ゆくえ」であって「いくえ」とはしないとか、現代ではどちらか一方の表記しか使わないものもありますが、これも謂わば両者が長く併存していたことの反映で、一方の慣用が定着したものであり、正誤の判断の根拠にはなりません。一方を間違いとして排除すると不都合が生じることにもなります。因みに、「行方」の訓「ゆくえ」を〈熟字訓〉と説明するものがあると聞きます(現職院生の教示)が、〈熟字訓〉をどのように定義しているのか、個人的には疑問を抱きます。

以上のように、「行く」は「いく」「ゆく」ともに正しい発音・表記と認めるべきもので、正誤に関する問題として採り上げるのはふさわしくありません。少なくとも、試験などで○×をつけるような問題とすべきではないと考えます。

最後に、 「言う」の「いう」と「ゆう」との問題に、どのような場合でもどうしても○×を付けたいと考えている方に、質問です。「良い」の意味の語を「いい」と表記することも問題にして、○×指導の対象にしているでしょうか? 「いう」と「ゆう」は作文指導などのいかなる場面でも細かくチェックするが、「よい」と「いい」は特に問題としないというのでは、考え方や指導の姿勢に一貫性・統一性がなくなると思うのです。指導の場から離れたご自身の表現行為においても、「言う」「行く」「良い」について、意識的に注意しながら発音・表記していますか?

「良い」は、伝統的な表記の歴史的正統性に基づく本来の発音・表記という見方をすれば「よい」であり、「いい」は近世以降に生じた語です。いわゆる現代日本共通語における使用実態・活用形の体系性を見ても、「よかろう(○)」「いかろう(×)」、「よかった(○)」「いかった(×)」、「よくなる(○)」「いくなる(×)」、「よい(○)」「いい(○)」、「よいこと(○)」「いいこと(○)」、「よければ(○)」「いければ(×)」のようになり、終止形と連体形に「いい」の語形が用いられるだけで、まだ整った活用体系を持つまでに至っていません。これらに見る限り、現在の口頭語においてすら「よい」に比べて「いい」はかなり分が悪く、「言う」を「ゆう」と表記することの問題と同じか、それ以上に大きな問題ではないかと思うのですが、如何でしょうか。「ゆう」の表記が×であると指導するなら、同じ理由で「いい」も×とすることが指導の一貫性・統一性を保つことにならないでしょうか。

拙稿をお読みくださった方々、ゆっくり考えてみて、是非ご意見をお聞かせください。

2011年1月11日掲載

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