正法眼蔵 古鏡 42
雪峰義存禅師と玄沙師備禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。
釈尊の教えの中でものを数える場合には、悟ったとか悟らないとかという事を論議はするけれども、それは一体どういうことかというと、二両、三両というようにものを具体的に数え現実がはっきりつかめるかどうかであり、抽象的に大金というよりも、五枚なのか十枚なのかという具体的な問題を考えることが仏道における数え方である。
雪峰義存禅師が一丈と言われたけれども、一丈という具体的な大きさこそ古鏡(永遠の価値を持った鏡)の広さである。そして、それであればこそ古鏡の広さは天地一杯である。玄沙師備禅師が目の前の炉をさして、「この炉の大きさは一体どのくらいか」と質問したことは、なかなか見捨てる事ができない非常に貴重な言葉である。一丈とか一尺とかという事は抽象的であって、目の前の炉の大きさがどのくらいかという質問が中々価値がある。無限の歳月をかけて、これを学ぶべきである。
いまここで雪峰義存禅師も玄沙師備禅師も、現に目の前で炉を見ているのであるけれども、一体どういう立場で炉を見ているのか。雪峰義存禅師としてか、人間としてか、動物としてか、僧侶としてか。その炉をみている主体が一体どういうものかということも、勉強してみる必要がある。
「この炉の大きさは一体どのくらいか」と言う質問に対して、物差しを持ってきて測ることが正解かと言うと、ここの問答では必ずしも正解ではない。人間が動揺したり執着している時はいい智慧が出てこないが、この玄沙師備禅師の言葉は,決して動揺したり執着している時の話ではない。いい智慧が出ないところで、あれこれと問答し論議しているのではない。さらにもう一歩踏み出してまったく新しい立場から、もっと具体的に問題考えたいと思ったからこういう問答を出されたことに他ならない。これは別の言葉で言うならば、「何かが、どこからかやって来た」ということを、いかにして説明しようかという問題でもある。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「仏道のものの数え方は、二両、三両というようにものを具体的に数え現実がはっきりつかめるかどうかである」とありますが、普通、二両、三両と言うとお金のことですね。どうしてこんな言葉をここで使わなきゃならないんでしょうかね。
先生
だから先ほどちょっと・・・。表現として大金という言葉と、二両、三両というふうな具体的な金との関係を頭において考えるといい。「あの人はお金持ちだ」というと、「あの人は百万持っています」「あの人は一千万持っています」「あの人は一億持っています」というふうな表現とどちらが具体的かという事になれば、金銭的に具体的に示すことが、物質をより正確に考える考え方という事になるわけですよね。
質問
だけど、どのくらい悟ったかって勘定するのに、そんなお金が出てくるというのはおかしい。
先生
だからその内容が、より具体的なものであって、抽象的に「あの人は悟った」とか「悟らん」とかいう事で色分けできない。悟りの中身というものは、もっと具体的なもので、「悟った」と言ってみても、日常生活がきちっとやれるかやれないかだけの問題だし、「悟らん」と言ってみても、日常生活がやれるかやれないかの問題だと。だから抽象的に「あの人は仏さん」「あの人は仏さんでない」というようなことで色分けして簡単には区別が出来ない。仏道の追及している中身というものはもっと具体的なものだ、もっと実体的なものだ、そういう意味です。
質問
お尋ねします。道元禅師が在世中のこのころ、すでに当時の貨幣の呼称単位として、両という言葉が現実に使われておったのですか。
先生
ここのところは、貨幣単位というよりも、物の重さという意味の方が強いと思います。両という貨幣単位が使われるようになったのは、鎌倉時代よりもずっと後だと思います。
質問
重量・・・。
先生
ここでは、物の重さだと見た方がいいと思います。
質問
貫目でございますか。
先生
そうです。中国では量というのが、物の重さの単位に使われたようですから。
質問
我々の観念では、両というと、どうしても金子(きんす)というような感じがパッと出てしまうもんですから、それで改めまして、この当時の量というのは、すでに貨幣の呼称単位としてあったんでしょうかどうなんでしょうかということを・・・。
先生
ここで言われている場合、貨幣の呼称として両という言葉を使っているんではないと思います。私はいま、大金とか小さい金という意味で例に引きましたけど、ここで二両三両というのは金の単位ではないと思います。
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釈尊の教えの中でものを数える場合には、悟ったとか悟らないとかという事を論議はするけれども、それは一体どういうことかというと、二両、三両というようにものを具体的に数え現実がはっきりつかめるかどうかであり、抽象的に大金というよりも、五枚なのか十枚なのかという具体的な問題を考えることが仏道における数え方である。
雪峰義存禅師が一丈と言われたけれども、一丈という具体的な大きさこそ古鏡(永遠の価値を持った鏡)の広さである。そして、それであればこそ古鏡の広さは天地一杯である。玄沙師備禅師が目の前の炉をさして、「この炉の大きさは一体どのくらいか」と質問したことは、なかなか見捨てる事ができない非常に貴重な言葉である。一丈とか一尺とかという事は抽象的であって、目の前の炉の大きさがどのくらいかという質問が中々価値がある。無限の歳月をかけて、これを学ぶべきである。
いまここで雪峰義存禅師も玄沙師備禅師も、現に目の前で炉を見ているのであるけれども、一体どういう立場で炉を見ているのか。雪峰義存禅師としてか、人間としてか、動物としてか、僧侶としてか。その炉をみている主体が一体どういうものかということも、勉強してみる必要がある。
「この炉の大きさは一体どのくらいか」と言う質問に対して、物差しを持ってきて測ることが正解かと言うと、ここの問答では必ずしも正解ではない。人間が動揺したり執着している時はいい智慧が出てこないが、この玄沙師備禅師の言葉は,決して動揺したり執着している時の話ではない。いい智慧が出ないところで、あれこれと問答し論議しているのではない。さらにもう一歩踏み出してまったく新しい立場から、もっと具体的に問題考えたいと思ったからこういう問答を出されたことに他ならない。これは別の言葉で言うならば、「何かが、どこからかやって来た」ということを、いかにして説明しようかという問題でもある。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「仏道のものの数え方は、二両、三両というようにものを具体的に数え現実がはっきりつかめるかどうかである」とありますが、普通、二両、三両と言うとお金のことですね。どうしてこんな言葉をここで使わなきゃならないんでしょうかね。
先生
だから先ほどちょっと・・・。表現として大金という言葉と、二両、三両というふうな具体的な金との関係を頭において考えるといい。「あの人はお金持ちだ」というと、「あの人は百万持っています」「あの人は一千万持っています」「あの人は一億持っています」というふうな表現とどちらが具体的かという事になれば、金銭的に具体的に示すことが、物質をより正確に考える考え方という事になるわけですよね。
質問
だけど、どのくらい悟ったかって勘定するのに、そんなお金が出てくるというのはおかしい。
先生
だからその内容が、より具体的なものであって、抽象的に「あの人は悟った」とか「悟らん」とかいう事で色分けできない。悟りの中身というものは、もっと具体的なもので、「悟った」と言ってみても、日常生活がきちっとやれるかやれないかだけの問題だし、「悟らん」と言ってみても、日常生活がやれるかやれないかの問題だと。だから抽象的に「あの人は仏さん」「あの人は仏さんでない」というようなことで色分けして簡単には区別が出来ない。仏道の追及している中身というものはもっと具体的なものだ、もっと実体的なものだ、そういう意味です。
質問
お尋ねします。道元禅師が在世中のこのころ、すでに当時の貨幣の呼称単位として、両という言葉が現実に使われておったのですか。
先生
ここのところは、貨幣単位というよりも、物の重さという意味の方が強いと思います。両という貨幣単位が使われるようになったのは、鎌倉時代よりもずっと後だと思います。
質問
重量・・・。
先生
ここでは、物の重さだと見た方がいいと思います。
質問
貫目でございますか。
先生
そうです。中国では量というのが、物の重さの単位に使われたようですから。
質問
我々の観念では、両というと、どうしても金子(きんす)というような感じがパッと出てしまうもんですから、それで改めまして、この当時の量というのは、すでに貨幣の呼称単位としてあったんでしょうかどうなんでしょうかということを・・・。
先生
ここで言われている場合、貨幣の呼称として両という言葉を使っているんではないと思います。私はいま、大金とか小さい金という意味で例に引きましたけど、ここで二両三両というのは金の単位ではないと思います。
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