情報空間でこれだけ匿名で思想が交換されているのに、その淘汰の中で哲学が生み出されるのは不自然ではないだろう。
物理的空間に拘束されている人が、その時に必要だと感じられたが概念を生み出してきたように、物理的世界と電脳世界に境界はない今の「日常」に、最適な思想も生まれてしかるべきだからだ。
逆に言えば、物理的空間に拘束されていた人々が生み出し且つ淘汰されてきた思想は、そのような外的環境における状況に最適なのであれば、現在の「日常」に当てはめるのには限界があるのだ。
従って、物理世界と電脳空間の双方に存続する知性に最適な思想というものを構築する必要がある。
まず、匿名で知識が共有されるとき、特定の人間を神格化するというのは適切でないだろう。つまり、それぞれが匿名で考え方を晒し、取捨選択の中で淘汰されて生まれる思想を特定のひとが「所有」するという状態は生まれるべきではない。
更に言えば、生成される思想は、「静的」なものでなく「動的」なものである必要がある。たしかに思想の交換の中からは「不変のモノ」も生まれ得る。しかし、「更新」を前提にすることこそが、情報空間における相互依存が前提である知性社会においての哲学のしかるべき姿なのだ。
つまり 増田哲学において、その思想は「無所属」、つまり、特定の人、組織、それに準ずるものに、現実、仮想において属するものになってはらない。
「更新」も前提にするべきものである。時代とともに、新たな情報が交換される中で新たな知がそこに統合される必要があるからだ。それこそが情報空間で生まれた「哲学」の所以である。
「増殖」も基本的前提となる。「拡散」、「改変」、「複製」、「転載」も自由だ。様々な、改変、解釈が行われていっても最終的に優れたものだけが淘汰されて残り、それが改めて集約されることで思想自体の「更新」へと繋がるからだ。同時に、その思想が追及すべきなのは、電脳、仮想、または現実空間に関わらず、「術からず知性を持つ存在の幸福」であり、その幸福を達成するために準拠しうる行動指標を示しうるものであるべきあろう。
そして、その本質的な部分は恒久的な、または長期的視野からみた「大いなる良」を達成するうえでの「相互補完」ということになる。「相互補完」とは各知性の「個」を尊重しつつも同時に
「他」の存在なしには持続的存続はあり得ないということを理解し、「他」を「自」と同様に意識する状態を指す。そして、「大いなる良」とは、「相互補完」の意識が浸透した「個」が相互に、そして「全体」と連結することで、存在しうるあらゆる知性がそれぞれにとって最適な存続環境を作り出すうえでの均衡状態を持続的に維持することを実現する思想であり行動様式を指す。