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僕は言葉を自由に操りたい

それが僕に残された最後の生き方なのだと

 

「もう十分生きたからさっさと逝くね」と

身体を壊した母が言う

 

「一ヶ月に一度は帰ってらっしゃい」

顔が見たいのだと言う

 

今年に入ってから僕は

それを忠実に守っている

 

そんなことを考えている傍で

買ってきたばかりの百合の花を妻がハサミで切っている

 

真っ白なゆりの花はすぐに黄ばんだ色になり頭を垂れる

綺麗なうちにどれだけ観てあげられるのだろう

 

子供の頃周りは誰もが貧しかった

なので貧しかったという記憶はない

 

ある日台所の不動明王を飾ってあった棚に

忘れられたかのような五円玉が置いてあった

 

ちょうどそれは目の高さのところにあった

託された葛藤

僕はその五円玉を盗んで駄菓子屋に行ったのだ

 

日が暮れるまで遊んだ後

夕暮れのカラスのようになって家に帰ったら

母は玄関に仁王立ちになって

僕の頬を打った

あの頃の強い母はもういない

 

小さくなった母の手を引き

母の歩幅に合わせて歩く

間もなくそれもできなくなるだろう

 

僕は僕の人生に大きな借りを作ってしまった

この借りは何としても返さねばならない

 

時代のハンドルを握らねばならない

残された時間はそれほど多くはないのだ

 

「母さんが元気なうちにオマエの歌う姿を見せてやれ」と父が言う

その約束は果たせるだろうか

 

やがて囲いから解き放たれ

僕が無心に歌を歌っている時

母はどこでそれを見ているのだろう

 

 

1ヶ月間

今日の、アクセス、コメント数に驚いています。物見遊山の方たちも多いでしょうね。いずれにせよ「ありがとうございます」という言葉しか、出てきません。

 

ブログ開設時は、1ヶ月で、10万アクセスあれば幸せなことだと思っていました。謙虚に言っているわけではありません。本当に、そう思っていたのです。

 

温かい励ましのコメントは、沈んでいた僕の心に勇気と活力をくれます。ダメなことに遭遇した場合、直ぐに迂回する賢さと要領の良さは、僕には無いようです。それは、子供の頃からそうでした。飛び越えられない川があったとしても、橋を探すことはせず、「次は飛び越えられるかもしれない」と、何度も挑戦してしまうのです。

「夢の斜面見上げて、いつかは行けそうな気がするから」と、

on your mark”で歌いました。これは、性格、性分というやつで、魂によく似たものであり備わったものなので、これからも変わらないと思うのです。

 

厳しい意見に、目を背けるつもりはありません。そのための全解放コメント欄です。胸に突き刺さるものもありますが、覚悟というものはそのために用意されています。言葉足らずで、誤解されているなぁと言う気持ちも生まれています。しかし、その手の意見は、世間一般の考え方として、もっともなものであり、僕なりに受け入れているつもりです。僕には、その場をクラッシュさせないために「相手を認めろ」と、いう考え方があります。たとえば、トラブル、摩擦は、自分の主張をやり投げのように放り投げたときに、生じやすいと思っています。相手にも、意志、主張があります。それを「認める」ことによって、おおかた解決されます。心を柔らかくするということでしょう。

 

今日、明日中に200万人、いや200万回のアクセスとなります。コメントは膨大ですが、コメントをされない方は、もっと膨大です。サイレントマジョリティの方々です。実は、こういう方の心の動きに、敏感になって文字を走らせなければならないと思っています。

 

「夢を見るのはひとりでいい」。

これに、反応された方たちが多かったようですが、これは、山の頂を指示するということです。登り道は、みんなで考えればいい。そして、登頂できたときの達成感は、みんなで味わう。喜び合う。これのたとえとして書かせて頂きました。成功している多くの大企業、または大企業ではなくてもいい。それがなされるときは、この考え方によって実現を見ることが多いのです。

「船頭多くして船山に登る」

これによって、失敗、分解している人たちが、溢れるほど存在するのが現実社会です。

 

意外かもしれませんが、僕の欠点のひとつには「他人の言うことを聞きすぎる」「他人に、影響されやすい」と、いうのがあります。迷いが生じやすいのです。

これは、プロデューサーであるナベさんかも指摘されました。一度、景色が見えたのならば、そこに向かって突っ走る。その姿に周りは誘発されてついてくる。

なので、

「今を強く生きる」

そこにたどり着くための意思表明と受け取っていただければ幸いです。

 

「時期尚早」に対して「手おくれ」があります。2年間の焦燥期間がありました。顔を伏せていては、何も始まらないと考えました。スタッフ(曲)は、十分にあります。力も備わりました。後は、足を踏み出すだけです。一歩踏み出すと、当然向かい風が頬に当たります。そこで躊躇するのは、二歩目の勇気が備わっていないからです。二歩目の次は三歩めです。この実感を味わいたい。試したい。後は、何があっても怯まない。第一歩目が、このブログだったのでしょう。

1ヶ月間、お付き合い下さい。

ASKA

 

マスコミのみなさんへ

非常に、迷惑です。

 

家に来られるのは、もう予想して行動しております。

家族へのフラッシュ攻撃は控えてください。しばらく、東京を離れます。

 

まぁ、息抜きにもなりますけどね。

ちなみに、福岡ではありません。重病を抱えた母の元へ行くのは止めて下さい。

 

とにかく、インターホンを鳴らすのは止めて下さい。

切なお願いです。

 

ブログは、どこからも書ける。

便利な時代になりました。

ASKA

ホントだ・・。

ボリビア」でしたね。

 

これは、書き直さなくては。

ご指摘、ありがとございました。

 

それから、認証のことを書かれてる方がいらっしゃいますが、このブログの冒頭で述べたとおり、すべてを受け入れる設定にしてあります。

偶々、のトラブルではないでしょうか?

 

みなさんの、コメントは、ひとつも逃さず目をとおさせてもらってます。

毎日、たくさんのコメントを、どうもありがとう。

 

それから、今アクセス数を覗いたら

1,512,143

でした。

 

嬉しいか?

もちろん。

ASKA

 

水鏡

水鏡

 

 

穏やかにたゆたう湖の上を

一筋の風が競争のように駆け抜けた

 

水面は風でジグザグな山を作り

表面をキラキラと尖った色で反射させた

 

ふたつめの風が吹き抜けた時だった

水辺に咲いていた花が湖に叩きつけられたのだ

花は顔を強く打ったが

一枚の花びらを犠牲にし

すぐにバウンドして元に戻った

 

花は震えるように小刻みに揺れた

一枚の花びらを中心に水の輪が広がってゆく

 

花びらは沈みかけた小舟のようになって

助けを求めているようだった

 

花と風との一瞬の戦い

 

勝って嬉しい花一もんめ

負けて悔しい花一もんめ

 

そして

「あの子が欲しい」と歌ったのは湖だった

一枚の花びらを得たのだ

 

湖は欲張りだった

水面には空があり雲が流れ太陽が落ちていた

 

僕は空を覗き込んだ

足元に空が広がっているのだ

 

僕は空に挟まれたような気持ちになり

南米ボリビアのウユニ塩湖を思い出した

 

だが

この湖には行き止まりがある

空の全てを映すことはできないのだ

 

切り取られた空が湖に張り付いていた

雲は湖の画面からはみ出していた

僕は本物の空を見上げて意味もなく少し安心した

 

夜になるとこの湖は星を奪うだろが

どうせ朝には返さなければならない

 

それが水鏡の宿命

ラブラブショー

ラブラブショー

 

 

まず歌詞を書くに当たって

僕なりの方法がある

 

ひとつは自分の言葉として生まれ落ちたもの

もうひとつは他人の言葉が深く胸に染みついたもの

 

ふたつを合わせてデスクトップのまな板の上で程よく叩く

一日を表すなら「おはよう」のようなものだ

 

言葉は柔らかく自分用になるが

柔らか過ぎては耳がこそばゆくなるときがある

硬すぎては聴き手が疲れるときがある

程よくとは実に曖昧でそのテーマとセンスに任される

 

当てもなく言葉を並べて行くとテーマが見えてくることもある

そのときは言葉の材料をもう一度最初から見直す

 

たっぷり染み込ませた情景を

経験のペーパーで丁寧に包み込む

荒々しく見せたいときも

荒々しく見えるように丁寧に包み込む

 

詩は色感 歌詞は語感

聴き手と景色を合わせるために言葉を順序良く並べて行く

言葉には順番がある

僕の味覚と同じにしなくてはならない

広場のようになった情熱のオーブンの上にそれを乗せて焼く

 

まだ姿を見せていない歌詞をしばし覗き込む

ほんのりと景色が見えたら裏返してみる

何度もそれを繰り返す

歌詞の香りがしてきたら

それをオーブンから素早く取り出す

 

取り出した歌詞に比喩のソースをかけ

今度は心のフライパンでこんがりと焼き意味をつける

 

納得のいく意味がついたら

心理というアルミホイルでもう一度包み込む

そこでカプチーノを一杯

それを飲み終わった頃にアルミホイルを開く

 

温かい新顔の言葉に惑わされぬよう

出来上がった歌詞を大事に口にしてみる

メロディと歌詞がしっくりくるまで何度も歌う

 

それがみんなのもとへ届いても

実のところまだ完成ではない

いつの日かやって来る共有空間

 

みんなの前でそれを歌ったときに

やっと歌は完成する

僕とオーディエンスのラブラブショー

 

これが僕のやり方です