ブログの題名は「ぎぜんしゃの足あと」。Twitterの名前は「ぎぜんしゃの宿」。などというわけわからない題名を付けさせて頂いております。この題名にしたのには理由があります。
東日本大震災
2011年、東日本日本大震災後、3年間被災地に単身赴任で入り微力の微力ながら復興のお手伝いをさせて頂いた。
混乱期の中、被災者のご苦労や涙もたくさん見てきた。その中で何かお手伝いをしたくてだが、こんなにも「ありがとう」を言われたことがないぐらい「ありがとう」を言って頂いたのだ。
いつの間にか被災者の為から「ありがとう」が嬉しくて働くようになった。疲れてても体が全然動くし心の奥底から湧いてくる感謝の力に助けられた。
偽善者
しかし、誰かのためと言いつつ結局自分の為じゃないかと葛藤するようになる。そんな矢先に被災地ではなく内陸の方から「お前は偽善者だ!」と言われた。
理由は復興支援は当時注目されやすく、テレビにも出ましたし、県知事さんと打ち合わせもした。超有名政治家さんや芸能人とも沢山会えた。ようは復興支援を手段として名声を手に入れたいんだろ!と言われたりもした。「復興大臣!」「市会議員にでもなれ!」と罵声も頂いた。
メディアに出たのは自分の意思ではないものの、しかしどこか自分の仕事が世の中に認められたような気がして悪い気分ではなかった。
葛藤は続く。自分の為だとか、誰かの為だとか、その答えは今でもわからない。被災者のほんの少しの笑顔を見たくて働いたのも確かだ。でもそれも結局は「おまえ自身がありがとう」が欲しくて働いたのではないか?そんな葛藤は常にあった。
そんな時このブログを読んだ。
やらぬ善では無く、義によって行う善
地震の際は被災地に身を投じた。
放射能で人が物を持っていかないと言われれば志願した。
勝負して敗れた者に制裁を与えず、むしろ助けを与えた。
困っている者がいたら助けた。
必要とあれば演説などした。
これらをやる時必ず付いて回る「偽善」という言葉。
人は思いたいように思うもので、言いたい奴は言わしておくしかない。
だから、あえてやらぬ善より、やる偽善で良いと言い聞かせていました。
でも最近、たまたまの会話の中で「人として生まれた義理による善だからね」と勝手に自分の口が話したことから
「義による善」つまり「義善だ!!」と閃きました。
そして驚いたのは辞書でこの義善を調べると、日本語として有りそうでなかったのです。この「義善」という言葉は是非、偽善とという言葉が、怖くて手を差し伸べられない人に使ってもらい、流行らしたいと思います。
「やらぬ善では無く、義によって行う善」
ブログ題名を「義善者」にしないのはまだ自分がそこまで成長していないから。それまではひらがなで行こうと思います。
そして
偽善ではなく義善に