知的生産における「自分なりの流儀」の確立について

ジェームス・W・ヤングは、半分正しく、半分間違っていました。

彼は、『アイデアのつくり方』で次のように書いています。

私はこう結論した。つまり、アイデアの作成はフォード車の製造と同じように一定の明確な過程であるということ、アイデアの製造過程も一つの流れ作業であること、その作成に当って私たちの心理は、習得したり制御したりできる操作技術によってはたらくものであること、そして、なんであれ道具を効果的に使う場合と同じように、この技術を修練することがこれを有効に使いこなす秘訣である、ということである。

たしかに、アイデアは一定の過程を経て製造されます。

アイデアを「閃く」といった表現からは、まるでそれが刹那の天才的な直感によってのみ成立するかのような印象を覚えますが、たいていその「閃き」の前にいくつかの過程を経てきていることがほとんどなのです。

その意味で、ヤングは発想の舞台を、象牙の塔から大衆広場へと変更してくれました。修練を積めば、誰でもできる行為となったのです。


しかし、上記の表現では、いくつかの、そして致命的な勘違いが発生します。

そのなかで、一番大きな勘違いが、「アイデア生成の≪公式≫を手に入れれば、誰でも発想できる」というものです。ヤングも、本の中でたびたび「公式」という言葉を用いています。

公式と言うと、たとえば、いくつかの変数を持つ方程式があり、そこに数字を放り込めば答えが出てくる、といった印象を覚えるのではないでしょうか。そして、その方程式はAさんでも、Bさんでも、Cさんでも同じなのです。言い換えれば、アイデアを生み出すための「マニュアル」がそこにあることになります。アイデアを生み出せるかどうかの正否は、その「マニュアル」を正しく入手できるかどうかにかかっているというわけです。

もちろん、ヤングは注意書きを残しています。

第一は、この公式は、説明すればごく簡単なので、これを聞いたところで実際に信用する人はまず僅かしかいないということ。第二は、説明は簡単至極だが実際にこれを実行するとなると最も困難な種類の知能労働が必要なので、この公式をてにいれたといっても、誰もがこれを使いこなすというわけにはいかないということである。

ここで重要なのは、「知能労働」という部分です。ヤングがやり残した仕事はここの掘り下げでしょう。つまり、「知能労働」というのは、一人ひとり違うのです。個性があるという言い方もしてもいいでしょうし、むしろそれぞれが違うことこそが「知能労働」である、と定義的に表現してもよさそうです。


たしかに、フォード車の製造には一定の明確な過程が存在するでしょう。では、日産はどうでしょうか。あるいはマツダは。

それぞれに、固有のプロセスを持つのではないでしょうか。同じメーカーでも、特別な車には特別なプロセスがあるかもしれません。

車を構成するパーツの概念は基本的に共通していますが、その作り方やら組み立て方、検査方法に至るまで、各メーカーが独自に研究し、最適なプロセスを導き出しているでしょう。結果として、それがそれらのメーカーの個性ともなっているわけです。

アイデアを生み出す、あるいは成果物を生み出す過程においてもこれと同じことが言えます。


私は物書きですが、同じように文章を書いている人と話していて、成果物に至るまでのプロセスが皆極めて異なっていることに驚きを感じます。

もちろん、似た部分もないではありません。共通して言えるノウハウはたしかにあります。しかし、どう考えても、それらのプロセスは同一ではありません。「プロセスが存在する」ことは共通していますが、ゴリラとチーターぐらいの違いがそこにはあります。

ヤングはアメリカで仕事をしていたので、もしかしたらそんなことはいちいち言うまでもないことだと考えたのかもしれません。個人が個人として、個人的にあることはアメリカでは説明を要することではない可能性もあります。しかし、日本ではどうでしょうか。その点に、若干の心配が残ります。


成果物を生み出すための一連のプロセスの中には、たしかに「公式」と呼べる部分はあります。一般的な意味で言われる「発想」は、アルゴリズム的に実行できる部分も含んでいるのです(※)。
※言葉を入れ替えたり、制約を変更したりといったこと。

しかし、それは全体の中の一部でしかありません。そして、その全体像については、統一的な「マニュアル」で記述することは不可能です。もし、それを記述してしまえば、それは「名ばかり知的生産」となってしまうでしょう。なにせ、知的生産とは、「頭をつかって何か新しいものを生み出すこと」なのですから。

頭を使うことを放棄した段階で、それは知的生産からは遠ざかってしまいます。


ヤングは、「この技術を修練することがこれを有効に使いこなす秘訣」だと述べました。私なりにパラフレーズすれば、それは「自分なりのプロセスを開発する」ということです。

これは、「知的生産のやり方は、皆それぞれ違っていい」という優しい眼差しではありません。むしろ、「知的生産のやり方は、皆がそれぞれに自分の流儀を確立しなければならない」という厳しい態度です。

なぜなら、自分なりの流儀と、自分なりの成果物は呼応しているからです。

もちろん、仕事として求められている成果物が「自分なりの成果物」でないのならば、自分なりの流儀は必要ないでしょう。むしろ邪魔かもしれません。

しかし、「自分なりの成果物」が必要な場合は、__車メーカーがもがきながらも自分たちの流儀を確立しているように__自分なりの流儀を確立していかなければなりません。そして、非常に残念ながらそうして確立した流儀が、「正解」かどうかを判定してくれる人は誰もいないのです。

あくまで自分なりにプロセスを少しずつ最適化し、成果物の具合からフィードバックを得て、暗闇の中でカイゼンを進めていくしかありません。


と、かなり悲愴的に書きましたが、基本的に上記のようなカイゼンは楽しいものです。なぜなら、それだって「発想」と「成果物の生成」の一つの実践には違いありません。

逆にこれを、「正解」を探すアプローチだと考えるとだんだん辛くなってきます。なぜなら、初めからそのようなものは存在しないからです。

「正解」がない以上、どうしてもどこかしらに不具合が出てきます。効率的でない要素も残るでしょう。それらは結局、マドルスルーするしかないのです。

ここに極めて難しいバランスがあります。

プロセスにこだわらないということはありえない。しかし、プロセスにこだわりすぎるのも間違っている。

大切なのは、このバランスをどちらか片方に傾けすぎないことでしょう。

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