機械翻訳を推進する力の中には、自然言語に近づけようという意欲は、一切ない。あるのは、人間のほうがそのうち機械のやることに慣れるに決まっているという確信犯的妄想だ。
確かに、人間は機械に慣れ、むしろ機械によって生活が単純化することを喜ぶ。
しかし、機械翻訳にそれをゆだねるには、機械翻訳はあまりにもお粗末なのだ。
これをお読みになっている人の多くが、「何を当たり前のことをわざわざ言っているんだ? この人は?」と思ってくれることを願う。しかし、私は、念のために、言わざるを得ない。なぜならば、昨今、世人が機械翻訳に寄せる信頼は、予想した以上に大きくなってしまっている。その責任は、翻訳に携わる者が無責任にプロモートしてきたことによる。まともな大人なら相手にしないようなガラクタを、あろうことか、「語学のプロ」と称する連中が、「使えますよ」と言って、世に広めている。そしてそれは成功している。
「機械翻訳は使うな」と、誰も言わなくなったらどうなるか。そういうことが、起こり得るのだ。「語学のプロ」の集団が機械翻訳セミナー、ポストエディットセミナーなんかを開くご時世だ。
私の言っていることは一種の被害妄想だ。そうであることをわかったうえで、なお言わなければならない。今の機械翻訳に我々のことばを決めさせるとどうなるか。我々は互いに通じることばを失う。機械翻訳はバベルの塔に似ている。機械翻訳はことばの変化のプロセスをスピードアップし、人間はそのスピードについていけなくなるが、既成事実化した機械翻訳はもう誰にも止めることができなくなる。
今の機械翻訳が目指しているのは、「翻訳したように見せかける」ことだ。原意が何も伝わっていないことを見抜けるのはエキスパートだけで、その他(翻訳で飯を食っている者も含めて)圧倒的多数には、わからない。圧倒的多数のほうにアピールすることをすれば商売が成功するのはあたりまえだ。エキスパートは単なる頭でっかち扱いをうける。
私が被害妄想だとすれば、機械翻訳はやがてすたれることとなるが、今機械翻訳をプロモートしている翻訳エージェンシーや人間の名は、永遠に記憶されなければならない。