どんな人や組織にも間違いやミスはある。社会が完璧を求めすぎると、どこかに無理が生じる。そんなことを踏まえたうえでなお、今回の失態は厳しく批判するしかない。

 東京・八王子で2年前におきた傷害事件の被告として訴追した2人について、東京地検立川支部が人違いを認め、起訴を取り消した。2人は犯行を否認したまま、それぞれ113日間と98日間、身柄を拘束された。

 誤認起訴とわかったのは、犯人らが逃走に使ったタクシーのドライブレコーダーの映像を、弁護人がタクシー会社に問い合わせて閲覧したのがきっかけだった。そこには被告らと明らかに違う人物が映っていた。

 なぜ捜査当局は気づかなかったのか。弁護人の努力を多としつつ、だれもが抱く疑問だ。

 警察は2年前に運転手から事情を聴いている。そのとき映像を見ないまま担当者が異動し、引き継ぎもなかったという。警察の捜査をチェックする立場にありながら確認を怠った検察ともども、お粗末というほかない。この間に映像が消去されてしまっていたらと思うと、恐ろしくなる。客観証拠の重要性に対する認識の甘さに驚く。

 「被疑者・被告人等の主張に耳を傾け、積極・消極を問わず十分な証拠の収集・把握に努め、冷静かつ多角的にその評価を行う」

 大阪地検検事による証拠改ざん事件などをうけて、5年前に制定された「検察の理念」の一節だ。検察官とそれを支える職員一人ひとりの血となり肉となっているのだろうか。

 検察OBなどから最近の捜査のありようについて、こんな懸念を聞くことがある。

 容疑者や関係者の供述調書をつくらないなど省力化の傾向がある。裁判員制度のもと、調書よりも公開の法廷でのやり取りを重視する機運がたかまったことが背景にあるのだろう。公判で勝負すること自体は結構だが、そうやって安易な方向に流れると、裁判員事件に限らず捜査全般のレベルの低下につながるのではないか――と。

 たしかに法廷に出す証拠はよりすぐりのものに絞られる傾向がある。だがベストエビデンス(最良の証拠)にたどりつくには、前提として捜査をつくし、あつめた証言や物証に適切な検討を加えることが不可欠だ。

 真犯人の検挙と並行して、警察、検察は今回の過ちを生んだ原因をさぐり、被害者と国民に説明する必要がある。人の自由を奪う強大な権限をもつ機関として、当然の務めである。