限界を決めているのは、自分
「努力を重ねても望む結果が得られない経験が続くと、人は、『何をしても無意味だ』と思うようになり努力をしなくなる」
これを「学習性無力感」といいます。アメリカの心理学者、マーティン・セリグマンが解き明かした理論です。
学習性無力感を説明するときのたとえ話としてよく使われるのが、カマス理論です。
獰猛なカマスを透明な仕切りのある水槽に入れ、仕切りの向こうにエサとなる小魚を放ちます。するとカマスは、小魚を食べようと仕切りにぶつかっていく。しかし、小魚を捕まえることができないとわかると、エサをあきらめてしまいます。この状態に慣れてしまうと、仕切りを外しても、カマスは小魚を食べようとしません。
カマスは小魚を捕る能力を持っているのに、捕れないと思い込んで、その能力を使わなくなってしまうのです。
では、カマスに小魚を食べさせるには、どうしたらいいでしょうか。
とても簡単です。
仕切りがあったことを知らない、新しいカマスを水槽の中に入れればいいだけです。
無気力なカマスは、新しいカマスが小魚を食べている様子を見て、
「あ、小魚を食べることは、できるんだ」
と気がつき、再び小魚を捕りはじめます。 カマス理論は、「思い込みが、可能性に蓋をすることがある」「限界は自分が決めている」といったメッセージを伝えるには、非常にわかりやすいエピソードだと思います。
天才は時代の空気でつくられる
歴史上「天才」と言われる人たちは、ある年代、特定の場所に集中的に登場することがわかっています。
統計学者のデヴィッド・バンクスは、「多すぎる天才」という論文の中で、天才たちが出現する時代や場所は集中する傾向があると記述しています。
たとえば、紀元前440年から前380年のアテネでは、プラトン、ソクラテス、ヘロドトス、エウリピデス、アイスキュロス、アリストパネス。1440年から1490年のイタリア・フィレンツェでは、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、ギベルティ、ボッティチェッリ、ドナテッロ。シェークスピアの時代のイ ギリスは、ベン・ジョンソン、エドマンド・スペンサー、フランシス・ベーコンとい ったようにです。 日本でも、幕末から明治維新にかけて、桂小五郎、坂本龍馬、大隈重信、高杉晋作、 勝海舟、伊藤博文、大久保利通、西郷隆盛、吉田松陰、山県有朋といったすぐれた人材が同時代に活躍しています。
デヴィッド・バンクスは、天才が同じ時代・場所に集中する条件として、次の3つを挙げています。
①多様な人間の交流がある場所
②教育と学習の新しい形を切り開いた場所
③リスクを取ることを支援する社会システム
僕は、才能がひとつの時代に片寄って登場するのは、「時代の空気」の影響を受けたからではないか、と考えています。
バニスターや野茂さんのような、一般の社会に大きな影響力を及ぼす人が一人登場すると、時代の空気が変わります。
「できない」という空気から、誰かが達成することで「自分にもできる」と時代の空気が変わり、結果的に、その時代に生きる人たちの限界が取り払われていくのです。
多くの人にはまだ伸び代がある
こうしてみてくると、「限界とは一体何なのか」という問いが浮かんできます。
周囲の環境によって、つくられたり、取り払われたりする「限界」。
もし限界をつくっているものが、自分の能力ではなく、思い込みであるならば、それを書き換えることで、思いもよらないかたちで、限界を超えることができるはずです。
僕は、2012年に陸上を引退すると、ビジネスパーソンや一般の人たちと交流することが増えました。
その中で、気づいたことがあります。
それは、「多くの人は、自分の限界の『もっと手前』を、限界だと思い込んでいる」ということです。 僕は、『走りながら考える』(ダイヤモンド社)の中で、こう書きました。
「どんなに頑張っても、どうにもならないものに出合ってしまう」
「いくら努力しても、ひっくり返せない才能がある」
「頑張っても手に入らないことがある」
人間の能力も、才能も、時間も、命も、有限です。矛盾するように思うかもしれませんが、僕は、限界はあると思っています。 しかし、その限界は、力を出し切った人の前にしか、あらわれないものです。人間 は本気で挑んだときにしか、自分の範囲を知ることができません。限界を突破するとは技術であり、スポーツ選手は、限界を突破することを技術として体得しているのです。
たとえば陸上であれば、走っていると、息が上がりはじめ、「もう、これ以上は走れない」と限界を感じることがあります。
けれどそれは、本当の限界ではありません。
姿勢を保ちながら呼吸のリズムを整えると、もう少しその状態を引っ張ることがで きます。さらに、ケツ割れといわれる足やお尻が動かなくなる現象が起きても、腕を振ったり、姿勢や動きを変えたりすれば、それ以上に踏ん張ることができます。
限界を超える経験をした人は、「このあたりが限界かな」と思った先に、本当の限界があることを知っています。だから、簡単にはあきらめず、限界を超える努力をするのです。
ところが、陸上競技の経験がない人は、息が上がった時点で限界に達したと思い込 み、早々とあきらめてしまいます。自分の限界は、まだ先にあるのに、手前を限界だと勘違いしてしまう。
つまり自分の能力を低く見積もってしまっているのです。
たしかに、限界はあります。 全力で走れる距離の限界、身長、筋力、時間の限界はあるでしょう。
でも、多くの人が心の中で感じている限界とは、本当の限界ではありません。 まだ伸び代があるのです。
であるならば、自分の思い込みがつくった限界を取り除きさえすれば、自分の才能をもっと発揮することができるのではないでしょうか。
「努力のしかた」をほんの少し変えるだけ
限界は、よく壁やハードルにたとえられます。
しかし、僕は限界とは壁ではなく、「檻(おり)」のようなものではないかと考えています。
なぜなら、限界は、一方向的ではなくて、周囲を囲まれるように外側からつくられているからです。
壁やハードルは、目の前にのみ立ちはだかりますが、限界はもっと立体的です。限界をつくり出す要因は、ひとつではありません。 身体的能力、時間、性格だけでなく、社会の常識、周囲の期待、他人との比較などさまざまな影響を受けていて、僕たちは、前も、後ろも、右も、左も、上も、塞がれています。そして、いつの間にか「限られた世界」(=限界)の中に取り込まれ、そこから脱出することはできないとあきらめてしまうのです。
いったん、限界を感じると、その中でしか思考ができなくなります。
思考の檻は、自分の行動を狭めてしまいます。行動力がなくなり、身動きが取れなくなります。さらに、限界の檻の中にいるのが、次第に心地よくなってくるからやっ かいです。
しかし、限界の檻をつくり出したのは、自分自身の思考や心。
自分でつくった檻の中に、自ら入り、もがいているのが、今の僕たちなのです。 であれば、檻を壊すことも、扉を開けて出ていくことも、簡単にできるのではないでしょうか。
では、限界の檻から抜け出すにはどうするか。
大きく2つの方向性があると僕は感じています。
ひとつは積み重ね。積み重ねとは、今までやってきたことの量を増やすことで、限界を突破する考えで す。しかし、積み重ねは注意が必要です。素ぶりや千本ノックに見られるような精神論と結びつきやすいからです。積み重ねる必要のない人も、固執しすぎているのが、今の日本のような気がしています。
一方、これまであまり重要視されてこなかったのが、次の方法です。
変化する
今までとは違うことを取り入れ、自分に揺さぶりをかけることで突破を図る。自分の認識や常識を上手に書き換え、まだ見ぬ力に出会う。僕は、積み重ねだけでなく、「変化」を有効に取り入れながら、限界に挑み、世界陸上で銅メダルを獲ることができました。