田中希生

@kio_tanaka

大学教員。歴史学者(近現代史)。著書に『精神の歴史』有志舎。

奈良・京都
2010年3月に登録

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  1. 国家なのか世界なのか、とにかくより大きなバイアスのなかでものをみることが正しいというような視点とは無縁でいたいものである。むしろ大切なことは、できるだけまっすぐに世界をみつめることであり、その結果が右や左の言説に似ていたとしても、それはどうでもいいことである。

  2. じつは右も左も同じことなのだが、バイアスにまみれたおのれを小さく見積もり、社会的個人なのか国家的民族なのかに、おのれの真の個人性を解消することが、正しい自己批判だと考えている点で、より大きなものに寄宿して生きていることに、なにも変わりはない。あまりに人間的な、その思考。

  3. たしかに自分も、人間はバイアスから逃れられず、見たいものしか見ないのだと、だからマシなイデオロギーを選ぶしかないのだと、そう考えることが自己批判だと早合点していた時代がある。格好つけずにいえば、左翼だったわけだ。しかし、そうした外部に思考の基準を置くことは、思考停止を意味した。

  4. わたしがもし、左右のイデオロギーに淫した言論しか発していないなら、それは自己批判の対象となる。わたしは、ただわたしの言葉を発しようとし、またその意志あるあいだは、わたしは自由である。右や左におのれの言論を規定してそこに収まってしまうことが、いかにインテリの思考を貧しくしているか。

  5. わたしは右でも左でもないのだが、そういう立場は極右だというつぶやきが流れてきた。そういう立場のひととは原理的に議論にならないし、したくもないが、すべての言論をイデオロギーの産物とみなす認識論的な態度は、左右を問わずインテリにも多く見られるものだろう。敵か味方か、というわけである。

  6. わたしはとにかく憲法についてはずっと悲観的なのだが、言論の自由という一点さえ守れれば、それほど恐れることはないとは思う。それにしても、寝なければならない。今日は講義が一本あるというのに。

  7. 今日の政権が関心を払うのは、テロリストの排除であって、それどころかテロリストを作り出しさえすることが、権力を確保するためのひとつの重要な手段になりつつあることである。敵は国内にいる、というわけである。戦争は外戦だけではないが、憲法の平和主義はどこまでそれを想定できているか。

  8. 三分の二を占めても発議もされないことになれば、ひとは憲法から関心を失う。改憲があろうとなかろうと、机上でなされるその議論自体が、憲法を現実から遊離させる。憲法の平和主義が空転しそうに思うのは、今日の政権はべつに外国と戦争しようなどとつゆとも思っていないように見えることである。

  9. 憲法とは、いわば歴史の墓標であり、ひとが墓参りにいく頻度くらいには意味をもつが、重要なのは憲法に至る歴史のほうだと考える想像力がなければ、墓標はただの古ぼけた石になってしまう。現実の生活より墓参りを優先するような人間を期待することは、今日の日本では、ほとんどできそうもない。

  10. けっして明示的に書かれてはいないものの、前文の精神が歴史に貫かれていることはあきらかであり、それは、日本人がかつておこなった悲劇的な戦争についての尊い記憶にもとづく。しかし、法の宙づり状態は、いかんともしがたいものがある。護憲か改憲か、表面的な議論はそれをますます助長する。

  11. 明治以来の歴史の反省が否定に帰結すればするほど、憲法は宙づりになっていく。否定的な歴史を忘却しようとする無意識の作用は強いものである。戦後70年とは、憲法を宙づりにする70年だったのかもしれない。憲法とてしょせんは法であり、現実の世界からの遊離を免れるというわけにはいかない。

  12. 帝国憲法は、とにかく古代以来の日本人の歴史を肯定するところから出発している。それは、憲法を歴史に根付かせることである。現在の憲法もまた、潜在的には明治以来の日本人の歴史を肯定するところから出発しているが、そう読むのは人文学的な想像力なしにはむずかしいものになっている。

  13. 憲法を憲法たらしめているのは、前文である。そこに精神がある。共同体の精神というのはその成員の歴史のことだが、とくに日本国憲法に書かれているのは、明治以来、終戦にいたるあいだの人間の歴史である。戦後七十年の歴史は、現行の憲法の精神の重みにはならない。それはあまり関係ない。

  14. 改憲派と目される勢力が国会で三分の二を占めたという事態は、それなりに歴史的な意味のあることである。たとえ選挙前の争点になっていなかったとしても、国民がそうした分布を実現させたということは、軽いとはいえない。議論しないわけにはいかないだろう。国会議員も、そしてわれわれ学者も。

  15. 目が冴えている。論文を書き出すと、どうも眠りが浅くなってしまう。ふだんは寝てばかりだから、仕事はその分集中したものにすべきだし、それでちょうどいいのだろう。いま書いているものを完成させずには死ねないという大げさな気持ちが、時間を切迫したものに感じさせるのかもしれない。

  16. 内戦や分断の危機はますます近しいものとなりつつあるが、それは言語が力を失っている証拠になる。言語が力を失えば、憲法は勝手に有名無実化する。改憲があろうとなかろうと、そうなる可能性は、たとえば十年前よりずいぶん高くなっている。

  17. 言論の自由とは、つまるところ政権批判を認めることだが(だからいまやほとんどの主要メディアはその意義を失いつつある)、テロとの対峙、治安の維持が意味するところは、言論の自由の監視、検閲である。公に他愛ない言葉をしゃべることも、言葉を取るに足らぬものにする、ひとつの自己検閲である。

  18. 国内にテロリストが跋扈しているかもしれない状況下で、われわれはなお言論、結社等々の自由を認め続けることができるだろうか。諸外国との戦争よりも、治安の維持と称する言論弾圧の方が、権力者にとってはその地位の維持に必要なことであると判断しても、おかしくはない。民衆もそれを求めるだろう。

  19. これから問われるのは、実のところをいえば、平和主義よりももっと本質的な、言論の自由であると思う。人間の法的活動の基礎は、究極的にいえば、ここにしかない。しかもこの部分がいちばん攻撃にさらされそうである。肝心なときに「助けて!」といえるかどうか。それを聞く耳をもっているかどうか。

  20. 西欧から見て、オリエントの沸騰はあきらかである。治安のためにおこなわれる天空から地上へもたらされる処罰がますますオリエントを駆り立てている。理念は地上から乖離して、根の大地まで届かぬ浮遊する大樹のようなものである。一方、平和主義は日本の大地に根ざしているか。70年はいささか短い。

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