この世は三次元、もしくは時間軸を入れるから四次元だ、などと言う。
私はまったくもって間違った考えだと思っている。
私ごとき一般人が答えを出すことは不可能ではあるかも知れないが、知識が無いからこそ考えられることもある。
もしかしたら答えを出すこと自体がナンセンスなのかも知れないが、以下に自分なりの考えを示してみます。
例によって非常に分かりづらいと思いますがなんとなくでも理解して頂いて、多くの人が色々な考えを持つことが出来たら楽しいのではないかと思います。
まず、時間と言うものの流れ、「過去」「今」「未来」の、「今」と言うものの考え方。
時間の流れとしてまず訪れるのは過去、そして今があって未来が来る訳だが、当然未来はどんななのかは分からない。
知ることの出来る限りでは「今」が最先端である。
ではなぜ未来は分からないか。
それは、「今」に様々なエッセンスが加わり変化するからだ。
変化の仕方は宇宙の法則(科学的・非科学的)だけでなく、自分の精神や、取り巻く人々の精神も影響してくるので分かり得るはずもない。
そして、下の図の過去のように、過去はどこにも存在しない。
単なる記憶であり、時間云々の前に存在し続けるのは「現実」(今)だけである。
「現在」(今)はスポットライトの当たっているところ、すなわち人間が五感で感じている一瞬のみ。
「今」は次々と記憶として蓄積されていくだけである。
では、記憶という「過去」の作られ方だが、これは宇宙(この世)の法則が勝手に次々生産する訳ではなく、生物が(もしかしたら物質も)ピックアップしながら自分で作り上げるものだ。
未来を外して、過去を生産する「今」を中心に考えると下のようになる。
※図をクリックで拡大
あくまでも記憶は断片的であり、自分の都合に合わせて作られる。
今があったからすべて記憶に変換されることはなく、自分や、自分に関わる人・物・事象に繋がりのあるものの中でしか変換されない。
自分の目の前を通り過ぎる「今」であっても、自分にも関係者にも何の利益不利益も無く、今後も何の関わりも持たないであろう事象は「忘れる」ことになる。
ここで、直接でなくても関係者から派生する何かに関係性が少しでもある、更に文献に残した、とでもなれば自分の知らないところで過去という記憶に残される。
逆に、どこにも関係性を持たない事象は記憶されることもなく「無」となる。
歴史が良い例であろう。
文献や絵に残っている、誰かが覚えている、のであればそれは歴史である。
しかし、この「過去」と言うものの無意味さは、間違いがあった時に気づかされる。
誰かが歴史を間違えて伝えた、嘘を言ったのが伝わった、と言う時、「あれ?これは過去か」と考える。
過去は絶対ではない。曖昧なもの。なぜ?
この「過去」と言うものは、記憶どころか「空想」でしかないではないか。
単純に「その事実は予測です」と言う意味ではなく、どんな記憶も実は「今」想像しているだけであるということ。
記憶は実は「今」。
「過去」も「今」なのだ。
となると、ここで時間が崩壊する。
というより、時間などと言うもの自体どこにも当てはめようもない。
では、何を時間と表現しているのだろうか。
普段使っている時間とはなんだ。
ここでアカシックレコードを使わせて頂く。
ここに来て頂いている方々なら説明も要らないだろうということで進めます。
先日の記事の内容からも感じるように、あの世から来る時にはある使命をもって下りてくる。
そして、前世の記憶等も含めすべてはアカシックレコードに存在していると思われる。
下の図の流れを見て頂きたい。
※図をクリックで拡大
要するに、すべての事象はアカシックレコード(あの世の一部かも知れない)からエッセンスを加えながらこの世の「今」に送られ、「今」を体感させたら直接アカシックレコードへ戻されるだけという事ではないか。
過去と言うよりも「今」として送られたものがこの世の「今」の一部として戻って行くだけ。
それらはあの世で実績として蓄積される。
ここでお気づきだろうか。
見方を変えると、この図のように全ての事象の流れは時間と言われるものの真逆なのである。
未来があちらにあり、それが「今」に送られ、実績(過去)としてまたあちらへ送られる。
もう一度言うと、時間と言うものは、「今」の1パーツ(記憶)同士を都合良くつなげる為の辻褄合わせのルールでしかないのだ。
次の「今」に備えての計算をしている「今」に過ぎない。
言い換えると、今している「計算」に過ぎない。
そういった意味では、タイムマシーンと言うものは存在しないと言って良いだろうと思う。
タイム自体が無いのだから。
しかしながら、タイムトラベラーというようなものは実在していると思う。
全てが嘘では片づけられないと思うのだが、ではその人達はどこから来ているのか。
何とも説明しようがないが、ここでパラレルワールドと言うものが登場するのだと思う。
他の「今」から他の「今」へ飛び込む事ではないだろうか。
いや、他の「今」を体験することではないだろうか。
それに影響された「今」をこちらが体験している、という感覚だろうか・・・
ここは正直あまりにも想像の域を超えており、仮説すらまともに出せない・・・
まずは、科学者達が小難しい計算や数式から脱却して、根本から考え直す事を切に願う。
子供の頃から思っていたが、計算は数字しか生まない。
それではいつまで経っても空間や重力を理解することはないだろう。
私はまったくもって間違った考えだと思っている。
私ごとき一般人が答えを出すことは不可能ではあるかも知れないが、知識が無いからこそ考えられることもある。
もしかしたら答えを出すこと自体がナンセンスなのかも知れないが、以下に自分なりの考えを示してみます。
例によって非常に分かりづらいと思いますがなんとなくでも理解して頂いて、多くの人が色々な考えを持つことが出来たら楽しいのではないかと思います。
まず、時間と言うものの流れ、「過去」「今」「未来」の、「今」と言うものの考え方。
時間の流れとしてまず訪れるのは過去、そして今があって未来が来る訳だが、当然未来はどんななのかは分からない。
知ることの出来る限りでは「今」が最先端である。
ではなぜ未来は分からないか。
それは、「今」に様々なエッセンスが加わり変化するからだ。
変化の仕方は宇宙の法則(科学的・非科学的)だけでなく、自分の精神や、取り巻く人々の精神も影響してくるので分かり得るはずもない。
そして、下の図の過去のように、過去はどこにも存在しない。
単なる記憶であり、時間云々の前に存在し続けるのは「現実」(今)だけである。
「現在」(今)はスポットライトの当たっているところ、すなわち人間が五感で感じている一瞬のみ。
「今」は次々と記憶として蓄積されていくだけである。
では、記憶という「過去」の作られ方だが、これは宇宙(この世)の法則が勝手に次々生産する訳ではなく、生物が(もしかしたら物質も)ピックアップしながら自分で作り上げるものだ。
未来を外して、過去を生産する「今」を中心に考えると下のようになる。
※図をクリックで拡大
あくまでも記憶は断片的であり、自分の都合に合わせて作られる。
今があったからすべて記憶に変換されることはなく、自分や、自分に関わる人・物・事象に繋がりのあるものの中でしか変換されない。
自分の目の前を通り過ぎる「今」であっても、自分にも関係者にも何の利益不利益も無く、今後も何の関わりも持たないであろう事象は「忘れる」ことになる。
ここで、直接でなくても関係者から派生する何かに関係性が少しでもある、更に文献に残した、とでもなれば自分の知らないところで過去という記憶に残される。
逆に、どこにも関係性を持たない事象は記憶されることもなく「無」となる。
歴史が良い例であろう。
文献や絵に残っている、誰かが覚えている、のであればそれは歴史である。
しかし、この「過去」と言うものの無意味さは、間違いがあった時に気づかされる。
誰かが歴史を間違えて伝えた、嘘を言ったのが伝わった、と言う時、「あれ?これは過去か」と考える。
過去は絶対ではない。曖昧なもの。なぜ?
この「過去」と言うものは、記憶どころか「空想」でしかないではないか。
単純に「その事実は予測です」と言う意味ではなく、どんな記憶も実は「今」想像しているだけであるということ。
記憶は実は「今」。
「過去」も「今」なのだ。
となると、ここで時間が崩壊する。
というより、時間などと言うもの自体どこにも当てはめようもない。
では、何を時間と表現しているのだろうか。
普段使っている時間とはなんだ。
ここでアカシックレコードを使わせて頂く。
ここに来て頂いている方々なら説明も要らないだろうということで進めます。
先日の記事の内容からも感じるように、あの世から来る時にはある使命をもって下りてくる。
そして、前世の記憶等も含めすべてはアカシックレコードに存在していると思われる。
下の図の流れを見て頂きたい。
※図をクリックで拡大
要するに、すべての事象はアカシックレコード(あの世の一部かも知れない)からエッセンスを加えながらこの世の「今」に送られ、「今」を体感させたら直接アカシックレコードへ戻されるだけという事ではないか。
過去と言うよりも「今」として送られたものがこの世の「今」の一部として戻って行くだけ。
それらはあの世で実績として蓄積される。
ここでお気づきだろうか。
見方を変えると、この図のように全ての事象の流れは時間と言われるものの真逆なのである。
未来があちらにあり、それが「今」に送られ、実績(過去)としてまたあちらへ送られる。
もう一度言うと、時間と言うものは、「今」の1パーツ(記憶)同士を都合良くつなげる為の辻褄合わせのルールでしかないのだ。
次の「今」に備えての計算をしている「今」に過ぎない。
言い換えると、今している「計算」に過ぎない。
そういった意味では、タイムマシーンと言うものは存在しないと言って良いだろうと思う。
タイム自体が無いのだから。
しかしながら、タイムトラベラーというようなものは実在していると思う。
全てが嘘では片づけられないと思うのだが、ではその人達はどこから来ているのか。
何とも説明しようがないが、ここでパラレルワールドと言うものが登場するのだと思う。
他の「今」から他の「今」へ飛び込む事ではないだろうか。
いや、他の「今」を体験することではないだろうか。
それに影響された「今」をこちらが体験している、という感覚だろうか・・・
ここは正直あまりにも想像の域を超えており、仮説すらまともに出せない・・・
まずは、科学者達が小難しい計算や数式から脱却して、根本から考え直す事を切に願う。
子供の頃から思っていたが、計算は数字しか生まない。
それではいつまで経っても空間や重力を理解することはないだろう。
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庶民の私は今だかつてフォアグラなる物はそうそう食べることはなかったが、数回だけ付き合いで割と高級な所で食べた事がある。
世界三大珍味の一つと呼ばれるそれを食した感想はと言うと、まぁ旨いと言えば旨い気がするが、正直一口二口の後はしつこいとしか言いようがなかった。キャビアも、・・・筋子の方が旨いな・・・としか思わなかった。
舌が肥えていないと言われればそれまでなのだが、舌が肥えるってどういう意味だ?
というか、そもそもフォアグラはガチョウやアヒルの病気(脂肪肝)の肝臓ということなのだが、どんな物なのか見てみると、やはりこれが旨いの一言で済むはずがない。
これがすべての農場のやり方ではないようだが、無理やり金属パイプで餌を押し込むというのは共通のようだ。
この農場では身動き出来ない状態でカロリー消費せずにひたすら強引に給餌している。
見る見るアヒルの目が死んでいくのが良く分かる。
それもそのはず、自分が同じ事をされたらどう感じるか考えてみれば分かる事。
肩幅いっぱいのゲージに入れられ首だけ出し、一日三回長いパイプを喉に突っ込まれ胃がいっぱいになるまで味わうこともなく餌を押し込まれる。
そして、喉や食道は傷つき炎症を起こしたまま、またパイプを突っ込まれる。
押し込まれる、激痛、出す、押し込まれる、激痛、出す・・・の繰り返しだけの毎日。
歩くことも出来ない。以上に膨れ上がった肝臓のせいで他の内臓が圧迫され、息が止まるほどらしい。
そのストレスは想像を絶する者であろう。
目が死んでいくのも当然。
そしてボロボロになったのち、首をやられて殺される。
この完全病気の肝臓が旨いと感じる方がおかしいと思うのだが。
脂肪が多いだけでなく、精気を失い、ストレスを溜め込んだ物が旨いと思う方もまたアル意味病的であると言ったら言い過ぎだろうか。
結局は通常の命を頂くだけでは物足りなくなった贅沢病になった人間が変わったものを欲しがった結果、無理やり作り出されたものではなかろうか。
物足りなくなった贅沢者の為にこんな苦痛を与えられる動物たちは浮かばれないであろう。
命を頂くだけではダメなのだろうか。
これはドイツの豚の屠殺(とさつ)とその活用の映像。
残酷なようであるが、これがこの世の生物のありのままの姿。
我々もこうして生かされているのだが、上のフォアグラとはまったくもって別物である。
この家庭では、年四回の豚の屠殺と処理をするが、ほとんど捨てるところはなく、膀胱や顔の肉から血まで使ってソーセージなどにする。
これが自然に対する感謝であり、生かされる生物のあるべき姿ではないか。
人が、変わったもの、珍しいもの、人が持てないものを欲しがるようになった時、それは「感謝」を忘れた時である気がしてならない。
世界三大珍味の一つと呼ばれるそれを食した感想はと言うと、まぁ旨いと言えば旨い気がするが、正直一口二口の後はしつこいとしか言いようがなかった。キャビアも、・・・筋子の方が旨いな・・・としか思わなかった。
舌が肥えていないと言われればそれまでなのだが、舌が肥えるってどういう意味だ?
というか、そもそもフォアグラはガチョウやアヒルの病気(脂肪肝)の肝臓ということなのだが、どんな物なのか見てみると、やはりこれが旨いの一言で済むはずがない。
これがすべての農場のやり方ではないようだが、無理やり金属パイプで餌を押し込むというのは共通のようだ。
この農場では身動き出来ない状態でカロリー消費せずにひたすら強引に給餌している。
見る見るアヒルの目が死んでいくのが良く分かる。
それもそのはず、自分が同じ事をされたらどう感じるか考えてみれば分かる事。
肩幅いっぱいのゲージに入れられ首だけ出し、一日三回長いパイプを喉に突っ込まれ胃がいっぱいになるまで味わうこともなく餌を押し込まれる。
そして、喉や食道は傷つき炎症を起こしたまま、またパイプを突っ込まれる。
押し込まれる、激痛、出す、押し込まれる、激痛、出す・・・の繰り返しだけの毎日。
歩くことも出来ない。以上に膨れ上がった肝臓のせいで他の内臓が圧迫され、息が止まるほどらしい。
そのストレスは想像を絶する者であろう。
目が死んでいくのも当然。
そしてボロボロになったのち、首をやられて殺される。
この完全病気の肝臓が旨いと感じる方がおかしいと思うのだが。
脂肪が多いだけでなく、精気を失い、ストレスを溜め込んだ物が旨いと思う方もまたアル意味病的であると言ったら言い過ぎだろうか。
結局は通常の命を頂くだけでは物足りなくなった贅沢病になった人間が変わったものを欲しがった結果、無理やり作り出されたものではなかろうか。
物足りなくなった贅沢者の為にこんな苦痛を与えられる動物たちは浮かばれないであろう。
命を頂くだけではダメなのだろうか。
これはドイツの豚の屠殺(とさつ)とその活用の映像。
残酷なようであるが、これがこの世の生物のありのままの姿。
我々もこうして生かされているのだが、上のフォアグラとはまったくもって別物である。
この家庭では、年四回の豚の屠殺と処理をするが、ほとんど捨てるところはなく、膀胱や顔の肉から血まで使ってソーセージなどにする。
これが自然に対する感謝であり、生かされる生物のあるべき姿ではないか。
人が、変わったもの、珍しいもの、人が持てないものを欲しがるようになった時、それは「感謝」を忘れた時である気がしてならない。
人類にとって究極の謎、宇宙の大きさ・宇宙の果て。
様々な視点から多くの研究者が見解や回答を出しているが、真実はどうなのであろうか。
今も変わらず重要視されているのは、宇宙はビッグバンから始まり今も広がり続けているという考えだろうか。
宇宙を知りたいというのは、現代に限らず知恵を持つ生き物としては当然の関心事であり、追い続けていくのが宿命と思う。
ただ、私の素人考えだと科学の視点自体がこの世を間違ってとらえていると思う。
まず、第一からして宇宙というものはややこしい物質の塊ではなく、この世や多次元の合成された単なる「空(くう)」であり、大きさや広さなんてもの自体が無意味なものであると考える。
その”空”に存在する物質(実際は存在自体が実体ではなくこの世の法則の結果をとらえているに過ぎない)を他の物質と比較して対応する為に目盛りというものを使って区切っているに過ぎない。
大きさというのはこちらの都合の為に考えた「区切り」に過ぎない。
物質そのものの大きさなどはそのものにとっては無意味であり、重さなどというのも法則によって影響を受けた結果に過ぎない。
それを人間が数値化しているだけだ。
たとえば、ここに宇宙がある。
この宇宙の言うのは、空(くう)の状態。
そこにある物質等は除外して、単なる場である。
よって、宇宙の法則のみ存在し物質は存在していない状態。
ここに立方体を設定する。
そこに樹脂を流し込んで模様をつける。
宇宙にサイコロが誕生した。
それは手に乗る大きさだと認識できる。
定規で測ると宇宙におけるサイコロの大きさという目安が出来た。
ここでしたことは、宇宙の中に区切りをつけて物質を充填しただけだ。
宇宙には何の影響も与えていないし与えられない。
変わりない宇宙の中に区切りをつけ元々存在した物を合成した樹脂をここへ移動しただけだ。
物体・大きさというのは、宇宙に起こった「区切れ」だけである。
それによって空間が増える訳でも減る訳でもない。
もう一度言うと、
宇宙には何の影響もしないし、宇宙の大きさとこのサイコロの大きさには何の関連性もない。
宇宙の中で単に起こった事象である。
星であろうが原子であろうが、この宇宙の中で起こった事象の一つに過ぎない。
大きさというのは、その事象を人間が独自の目安で測ったという事実の一つに過ぎない。
宇宙自体には何の関係もない。
これは、宇宙が広がり続けているという根拠になる星の遠ざかって行く様子。
だが、これも星が移動し続けているというただの事象であり、遠ざかっているというのも、今と前の場所を区切ったことによる目安に過ぎない。宇宙自体の大きさとは何の関係もない。
宇宙という空間と物質の「癒着」の証拠はどこにもない。
宇宙の中の物体がどうなろうと宇宙自体には影響を及ぼすことなどない。
よって、宇宙の中での事象を使って宇宙自体に大きさというものを結びつけること自体が無意味なことだ。
大きさというものは、空間内における「見た目の区切れ」であり、大きさ自体は存在しない。
空間とは何の関係もない。
人間がどんな手を使って区切ろうとも、結局は見た目の区切れでしかない。
なので、宇宙の何も測れていない。
中で起こる事象の何を測ろうとも、目視出来る区切れを確認する事しか出来ない。
電波が届くとか届かないとか、光が曲がるだの消えるだの、そんなことは法則における事象の一つ。
宇宙の大きさとは何の関係もない。
なのに、なぜか人間は宇宙空間を、暗闇とその中身の融合物として考えている。
宇宙は法則の上に成り立っているただの”空”。
果てがあるとか無いとか歪んでるとかの問題ではなく、大きさを考える事自体が的外れだと思われる。
知るべきは”空”とは何か、宇宙(神)の法則とは何かだ。
それがフリーエネルギーや反重力に繋がっていく。
科学者がそれを考え直さない事には根本的な進化は起こらないと思う。
すみません・・・
正直、うまく説明出来ていない・・・
何度も読み返して頂いて、真意をくみ取って頂ければと思います。