アイリス・マードック「網のなか」
この作家の作品初めて読んだけど、素晴らしかった。
レイモン・クノーに献辞されていたからかもしれないが、
作品全体に流れる滑稽さにクノーと通じるものを感じた。
ただクノーよりも心理的な要素を感じる。
理屈では測れない人間の微妙な心理が全編に散りばめられている。
たとえば金に困っている主人公が、大金を得られる申し出を拒絶する場面などには
誤りを承知しながらそれに固執する人間の心理がよく描かれていると思う。
ストーリーはめんどくさいから書かないけど、
タイトルにある「網」を何と見るかで
このストーリーの捉え方は違ってくると思う。
訳者の解説では(あるいは著者自身がそういった見解を示していたのかもしれないが)
「網」を観念と捉え、観念的な世界に生きる主人公が
より大きな現実に直面し、観念の網のなかから脱して
現実の人生を歩む、というような解説がなされている。
実際ストーリーを見れば、知的階級の主人公が様々な現実を経験し、
労働という現実の生活に生きていこうとする、
あるいは他人の翻訳などやめ、自己の作品を書こうと心に決め
自分の人生を見つけ出す、というような話としてみるのは自然だし
納まりがいいように思える。
実際ラストのシーンで主人公が
自己の人生という安全な支えとなる圧力を、ぼくはあたり一面に感じた。
見すぼらしく、栄光もなく、明らかに無意味な、しかし自分自身のものなのだ。
こう独白する場面は印象的だ。
だけれどこれでは昔ながらのストーリーに過ぎない。
そもそも主人公が特に観念的だとも思わないし、
この主人公は今後も似たようなことを繰り返しそうではある。
自分としては、「網」をより大きなもの
それこそ現実、人生そのものとして捉えたい。
この作品には多くのズレ、微妙な齟齬がそのまま展開されている。
それはストーリーの妙であり、喜劇的な要素でもあるが
それこそ現実、人生そのものでもある。
前述の大金を得られる仕事を拒否したあと
主人公は自分をユダと重ね合わせる。
つまり望まぬ仕事のために金を拒否したときに
金のためにキリストを売ったユダになった気持ちになるのだ。
おそらく仕事と金を受託していたら
彼はそれこそユダになった気持ちだろう。
選択などないのだ。ただ網のなかにいるだけで。
あるいは、主人公が夢中のアンナはヒューゴーに首ったけ
ヒューゴーが夢中のサディーは主人公に首ったけ、
このおかしな関係を理解したあと、主人公はサディーの気持ちに気付き
サディーの方へ思いを向けることを示唆する。
作品の冒頭でベケットの「マーフィ」の名前が出てくるが
いみじくもマーフィのなかで、確かエンドン氏か誰かが
思いを寄せるミス・カウニハンを得ることができたら、
それはそれと対応する満たし得ない空洞を作り出す、と述べる場面がある。
おそらく誰を得ようと誰を失おうと
あるいはどのような道筋を辿ってみたところで
自己の人生から得られるものは、同じものではなくとも
同質のものであることに変わりはないのだ。
誰もが網のなかで彷徨っていることに変わりはないのだから。
これは悲しいことのように聞こえるかもしれないが
同時に滑稽であり、笑えることでもある。
この作品は人生がアンビバレントなものだということをよく表しているように思える。
レイモン・クノーに献辞されていたからかもしれないが、
作品全体に流れる滑稽さにクノーと通じるものを感じた。
ただクノーよりも心理的な要素を感じる。
理屈では測れない人間の微妙な心理が全編に散りばめられている。
たとえば金に困っている主人公が、大金を得られる申し出を拒絶する場面などには
誤りを承知しながらそれに固執する人間の心理がよく描かれていると思う。
ストーリーはめんどくさいから書かないけど、
タイトルにある「網」を何と見るかで
このストーリーの捉え方は違ってくると思う。
訳者の解説では(あるいは著者自身がそういった見解を示していたのかもしれないが)
「網」を観念と捉え、観念的な世界に生きる主人公が
より大きな現実に直面し、観念の網のなかから脱して
現実の人生を歩む、というような解説がなされている。
実際ストーリーを見れば、知的階級の主人公が様々な現実を経験し、
労働という現実の生活に生きていこうとする、
あるいは他人の翻訳などやめ、自己の作品を書こうと心に決め
自分の人生を見つけ出す、というような話としてみるのは自然だし
納まりがいいように思える。
実際ラストのシーンで主人公が
自己の人生という安全な支えとなる圧力を、ぼくはあたり一面に感じた。
見すぼらしく、栄光もなく、明らかに無意味な、しかし自分自身のものなのだ。
こう独白する場面は印象的だ。
だけれどこれでは昔ながらのストーリーに過ぎない。
そもそも主人公が特に観念的だとも思わないし、
この主人公は今後も似たようなことを繰り返しそうではある。
自分としては、「網」をより大きなもの
それこそ現実、人生そのものとして捉えたい。
この作品には多くのズレ、微妙な齟齬がそのまま展開されている。
それはストーリーの妙であり、喜劇的な要素でもあるが
それこそ現実、人生そのものでもある。
前述の大金を得られる仕事を拒否したあと
主人公は自分をユダと重ね合わせる。
つまり望まぬ仕事のために金を拒否したときに
金のためにキリストを売ったユダになった気持ちになるのだ。
おそらく仕事と金を受託していたら
彼はそれこそユダになった気持ちだろう。
選択などないのだ。ただ網のなかにいるだけで。
あるいは、主人公が夢中のアンナはヒューゴーに首ったけ
ヒューゴーが夢中のサディーは主人公に首ったけ、
このおかしな関係を理解したあと、主人公はサディーの気持ちに気付き
サディーの方へ思いを向けることを示唆する。
作品の冒頭でベケットの「マーフィ」の名前が出てくるが
いみじくもマーフィのなかで、確かエンドン氏か誰かが
思いを寄せるミス・カウニハンを得ることができたら、
それはそれと対応する満たし得ない空洞を作り出す、と述べる場面がある。
おそらく誰を得ようと誰を失おうと
あるいはどのような道筋を辿ってみたところで
自己の人生から得られるものは、同じものではなくとも
同質のものであることに変わりはないのだ。
誰もが網のなかで彷徨っていることに変わりはないのだから。
これは悲しいことのように聞こえるかもしれないが
同時に滑稽であり、笑えることでもある。
この作品は人生がアンビバレントなものだということをよく表しているように思える。
スポンサーサイト