このブログは、まじめにふざけることをコンセプトとしているので、固いことを述べるのは羞恥をおぼえるのだが、この件については、あえて乗っからせていただく。
7月21日の新聞に掲載された「日本文学振興会」の全面広告。
「人生に、文学を。
文学を知らなければ、
目に見えるものしか見えないじゃないか。
文学を知らなければ、
どうやって人生を想像するのだ(アニメか?)
読むとは想像することである。
世の不条理。人の弱さ。魂の気高さ。生命の尊さ。男の落魄。女の嘘。
行ったこともない街。過ぎ去った栄光。抱いたこともない希望。
想像しなければ、目に見えるものしか知りようがない。
想像しなければ、自ら思い描く人生しか選びようがない。
そんなの嫌だね。つまらないじゃないか。
繰り返す。人生に、文学を。
(一年に二度、芥川賞と直木賞)」
驚きの上から目線
いわゆる、釣り、なのだろうか。
わざとツッコミ要素のある挑発的なことを述べて、議論を巻き起こし、話題性を高め、結果的になんらかの利益を得ようとしているのか?
「文学を知らなければ、どうやって人生を想像するのだ(アニメか?)」
話題になっているこの部分は、アニメ好きを見くだしていると思われて当然だ。そんな意図はないというなら、想像の大切さを訴えるこの広告の制作者に「想像力」がないというほかない。
なにかを評価したい、持ちあげたいときに、ほかのなにかを否定するというやり方は、比較するための指標が明確であるなら合理的であるが、そうでないなら、短絡的で浅はかだ。
この広告によって、当の文学の書き手たちが、だれよりも不快な思いをしているのではないだろうか。
小説を書いている人間は、小説がほかの分野の創作にくらべて、なんらかの上位性があるから表現の場として選んだわけではない。
書きたいから書く。書かずにはいられないから書く。自己顕示欲を満たしたいから書く。金が欲しいから書く。
その動機は高尚でもなんでもない。ごくごく俗っぽいものだ。
市場規模は縮小の一途なのに
私は、「文学」という言葉が放つ空気が苦手だ。売り上げは業界全体が深刻な右肩下がりで、やがては絶滅危惧種にされてもしょうがない存在になってきてるのに、なにをお高くとまってやがるんだと思ってしまう。
この広告も、プライドに満ちている。沈みゆく船から、「乗りたいなら乗せてやらんでもないが?」といっているようで滑稽だ。
ちょっと黙っててくださいな。私のような末端にいる書き手ですら、薄ら寒くなる文章である。
文学がほかの分野の芸術や娯楽よりも上にあるという思いを業界が持っているなら、内輪でほめたたえ合いながら、その奢りとともに沈んでしまえばいい。書く人は、どんな状況になっても書きつづけるだろう。
出版業界には、自分たちがかかわっているのは「商売」ではない、「文化」だ、と考えている人が少なからずいる。その誇りは立派だが、もはや文化としての独自性と認知度は、「アニメ」のほうが上では?
この広告の制作者は、本を売る大変さを知らないようにも思える。
小説は、作家ひとりががんばっているイメージがあるかもしれないが、一冊の本が読者の手に届くまでに、どれだけの人に支えられていることか。ひとりひとりと握手して頭を下げたい思いになる。お高くとまっているようなスタンスには、到底なれない。
この広告は、じつはすべてわかっていて、文学好きや文学に憧れる者の自尊心を刺激することのみを目的としているのだろうか。
数千万円の広告料を支払って、「文学好きのぼくたちって、高尚だよね」と思わせようとしてくれているのだろうか。
だとしてもあきれる文章だ。
「想像力」というものが、文学を読むことからしか得られないかのように書いている点に頭が痛くなる。
察するに、アニメとおなじく、漫画も下に見る向きだろう。
漫画の描き手からすれば、想像の余地がないほどに描き尽くすなんてことはありえない。どれだけ読者の想像力に頼っていることか。小説に「行間」があるように、漫画にも「余白」がある。
そもそも、つぎはどうなるだろう、という想像力が読者にあるからこそ、ページをめくってもらえるのだ。
読書という行為を、自分を高めるためにするもの、と位置づけているところもいやらしさを感じる。
読書は、娯楽でいい。小説は、読みたいから読むんだ。
役に立つかどうかは、書き手や売り手がいうことではない。読者が自分で判断すべきことだ。
上記の広告の訴え方は、親が、「漫画ばっかり読んでないで小説を読め、ためになるぞ」といい、子どもに、「小説を読んでる父さんが、その程度じゃん」と返されるレベル。
これはオチなのか
最後に小さくカッコ書きで、「一年に二度、芥川賞と直木賞」と書かれているのが笑える。
そう、これは芥川賞と直木賞の宣伝にすぎないのである。
第155回の選考結果がでましたよ、芥川賞の『コンビニ人間』(村田沙耶香)と、直木賞の『海の見える理髪店』(荻原浩)をみなさん買ってね、ということなのだ。
なのにこの上から目線。
作家はだれもが、どうぞよろしくお願いします、という姿勢なのに、読者とのあいだに入っている存在が、ふんぞり返っているイメージになってしまう。
「この広告を作った人間は、文学にふれておらず、ゆえに想像力のない広告が仕上がりました。こんなセンスの持ち主にならないよう、文学を読みましょう」
ーーといった文言が、つぎの広告として控えているのかもしれない・・・。
おまけ
「人生に、ネコを。
ネコを知らなければ、
目に見えるものしか見えないじゃないか。
ネコを知らなければ、
どうやって人生を想像するのだ(ワンコか?)
ネコとは想像することである。
世の不条理。人の弱さ。魂の気高さ。生命の尊さ。男の落魄。女の嘘。
行ったこともない街。過ぎ去った栄光。抱いたこともない希望。
想像しなければ、目に見えるものしか知りようがない。
想像しなければ、自ら思い描く人生しか選びようがない。
そんなの嫌だね。つまらないじゃないか。
繰り返す。人生に、ネコを。
(一年に二度、発情期)」