隆慶一郎は三島由紀夫をどう見ていたのか
隆慶一郎は、私が読んだ範囲では、三島由紀夫について声高には語ってはいない。だが、彼が戦後「そのうち世間が落着いて来て、『葉隠』についての著作や小説がぽつぽつと現れるようになって来た」と言うとき、『葉隠入門』という著作もあり、実際に「犬死気違ひ」を戦後の空間で実践してみせた三島由紀夫が念頭になかったはずもないだろう。三島由紀夫は隆慶一郎より二年年下で、同じく東京大学を出ている。ふたりとも、小林秀雄に心酔に近い感情を持っていた。三島の『金閣寺』は小林秀雄の『モオツァルト』を指して「小林さんのを盗んだ所があるんです」と昭和32年の対談で述べている。まずもって、隆慶一郎が三島由紀夫を無視できるわけもない。
1969年に三島由紀夫が著した『葉隠入門』を具体的に隆慶一郎が、どう見ていたかはわからない。が、読んでいないはずはない。その後、この著作は英訳のみならず、仏訳・独訳もなされた。三島の『葉隠入門』には、当時の時代背景と状況について、隆慶一郎の思いと表面的に関連していると思わせる部分がある。三島由紀夫『葉隠入門』より。
「葉隠」がかつて読まれたのは、戦争中の死の季節においてであった。当時はポール・ブールジェの小説「死」が争って読まれ、また「葉隠」は戦場に行く青年たちの覚悟をかためる書として、大いに推奨された。
戦争中から読みだして、いつも自分の机の周辺に置き、以降二十年間、折にふれて、あるページを読んで感銘を新たにした本といえば、おそらく「葉隠」一冊であろう。わけても「葉隠」は、それが非常に流行し、かつ世間から必読の書のように強制されていた戦争時代が終わったあとで、かえってわたしの中で光を放ちだした。
三島由紀夫はずっと特攻隊の「犬死」というアポリア(問題)を解こうとしていた。
「葉隠」の死は、何か雲間の青空のようなふしぎな明るさを持っている。それは現代化された形では、戦争中のもっとも悲惨な攻撃方法と呼ばれた、あの神風特攻隊のイメージと、ふしぎにも結合するものである。神風特攻隊は、もっとも非人間的な攻撃方法といわれ、戦後、それによって死んだ青年たちは、長らく犬死の汚名をこうむっていた。(中略)特攻隊は、いかなる美名におおわれてとはいえ、強いられた死であった。そして学業半ばに青年たちが、国家権力に強いられて無理やり死へ追いたてられ、志願とはいいながらも、ほとんど強制と同様な方法で、確実な死のきまっている攻撃へとかりたてられて行ったのだと……。それはたしかにそうである。
三島の語る「学業半ばに青年たちが、国家権力に強いられて無理やり死へ追いたてられ」た具体的な一人が隆慶一郎だった。むしろ、三島由紀夫はその二歳差で戦地を免れている。
三島由紀夫は「死」というものは、自殺ですら自分の意思の基におけるものではないと論を進める。
すなわち、「葉隠」にしろ、特攻隊にしろ、一方が選んだ死であり、一方が強いられた死だと、厳密にいう権利はだれにもないわけなのである。問題は一個人が死に直面するというときの冷厳な事実であり、死にいかに対処するかという人間の精神の最高の姿は、どうあるべきかという問題である。
そこまではおそらく三島由紀夫と隆慶一郎の両者は似た考えを持っていただろう。その部分は、彼の師ともいえる小林秀雄の思いのなかで微妙な共感としても読みだせる。
三島由紀夫の自死とはなんだったのか?
三島由紀夫が自死を遂げたとき、日本の社会は当時の佐藤栄作総理を含めて、それを狂気の所業とした。国民的作家の道を辿りつつあった司馬遼太郎は、三島由紀夫の思想の純粋さに理解を示しながらも、思想と現実は異なるのだという説教を事件翌日の読売新聞の一面で展開した。いずれも、三島由紀夫がその死によって見せつけたものから逃れようとしている戦後の精神の限界が、逆に三島由紀夫に先駆されていることを知っていた。小林秀雄はどうだったか。江藤淳との対談でこの話題は決裂していた。小林は「思想家としての徹底性と純粋性」として「三島君の悲劇は日本にしかおきないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう」と述べたところで、江藤は、三島はただ老年が先に来ただけだと言い捨て、小林の逆鱗に触れた。昭和46年の若い江藤淳は自分もまた自死することを知らない。『歴史について』より。
小林 いや、それは違うでしょ。
江藤 じゃあれはなんですか。老年といってあたらなければ一種の病気でしょう。
小林 あなた、病気というけどな、日本の歴史を病気というか。
江藤 日本の歴史を病気とは、もちろん言いませんけれども、三島さんのあれは病気じゃないですか。病気じゃなくて、もっとほかに意味があるんですか。
小林 いやァ、そんなことをいうけどな。それなら、吉田松陰は病気か。
江藤 吉田松陰と三島由紀夫は違うじゃありませんか。
小林 日本的事件という意味では同じだ。僕はそう思うんだ。堺事件にしたってそうです。
江藤 ちょっと、そこがよくわからないんですが。吉田松陰はわかるつもりです。堺事件も、それなりにわかるような気がしますけど……。
小林 合理的なものはなんにもありません。ああいうことがあそこで起こったということですよ。
小林秀雄と江藤淳の対話は咬み合わない。そしてこの対談では小林の真意は開示されない。江藤にしてみれば、三島由紀夫の自死はただの精神の病の帰結にすぎない。では小林秀雄はなにを見ていたのか。この問題は、戦中の、結果的に国家に恭順的だった小林のあり方にも関連するが、なにか強い精神性を核としている。この小林秀雄の思いは、彼に師事していたに等しい若い日の隆慶一郎の内面に、三島由紀夫の『葉隠』観に関連して、ある心理的なドラマを形成していたことは想像に難くない。
そしてそのドラマの果てで隆は、三島の『葉隠』観も否定したかったのではないだろうか。『葉隠入門』を著して三年後に自死した三島由紀夫という存在をも、『葉隠』の根底から否定的に転換しようとしていたのではないか。
戦後という時代のなかで、戦中的な文脈を超えて『葉隠』の意味を問い返した隆慶一郎と三島由紀夫とでは、どこに差異が生じるのだろうか。三島由紀夫の側から対比的に見てみたい。気になるのは、「犬死気違ひ」という死の無意味さをどう了解するかにある。三島は『葉隠』の「忠も孝も入らず、武士道に於いては死狂ひなり。この内に忠孝はおのづから籠るべし」という部分に着目してこう述べる。
この一項の「この内に忠孝はおのづから籠るべし。」という一行は、はなはだ重要である。なぜなら、「葉隠」は単なるファナチシズムでなくて、また単なる反知性主義ではなくて、純粋行動自体の予定調和というものを信じているからである。
三島は、「犬死気違ひ」として意味を奪われた死に対して、それを補うかのように「純粋行動自体の予定調和」という奇妙なことを言い出す。この考えは、意味の充足が永劫の時間の後に予定調和的に解消される期待を持っている。三島由紀夫は自死がいずれ彼が理想とする日本国の精神をその死によって引き起こされる未来があると信じていたのである。そしてもうひとつ、三島には死に欲望を絡めていた。この「純粋行動自体」には密かにそれ自身の美を秘めていたのである。同時期に書かれ彼の実質的な遺書を形成している『行動学入門』のなかで彼はその耽美趣味を開陳していた。
オーストラリアでの特殊潜航艇が敵艦に衝突寸前に浮上し、敵の一斉射撃を浴びようとしたときに、月の明るい夜のことであったが、ハッチの扉をあけて日本刀を持った将校がそこからあらはれ、日本刀を振りかざしたまま身に数弾を浴びて戦死したという話が語り伝へられてゐるが、このやうな場合にその行動の形の美しさ、月の光、ロマンチックな情景、悲壮感、それと行動様式自体の内面の美しさとが完全に一致する。しかしこのやうな一致した美は人の一生であることはおろか、歴史の上にもさう何度もとなくあらはれるものではない。
三島由紀夫は死の倫理的な意味を美的な意味に置き換えようとした。自死もまたそこに置いていた。隆慶一郎はそのような回避を取らなかった。むしろ隆は、逆に死がもたらす滑稽なダンスのような世界を描こうとしていた。死の無意味さに、躍動する滑稽なロマンを再選択したのである。
ポール・ヴァレリーを巡る彷徨
15章をもって未完となった『死ぬことと見つけたり』は構想ではあと3章で完結することになっていて、その結末に向けたノートと編集者の聞き書きが残されている。16章では藩主が死に、17章では主人公の杢之助が殉死を禁じられていながら死を決意する。
杢之助の死はどう描かれていたか。それは彼が毎朝鍛錬していた死の情景を超越するものだった。まず、前段に幼いころから思い続けていた女性「あい」に会いに行って会話する。その内容が、幼い日に彼女の女性器を覗き見したことがあるかという馬鹿馬鹿しい対話である。密かに愛し続けた女性である「あい」を笑わせることができた彼にはもう現世に思い残すこともない。その死は、一つの笑いと夕焼けの明るさが残される。補陀洛山渡海として、杢之助は海を西に泳ぎ進む。溺死が暗示される。死体も残らない。それはまさしく、隆慶一郎の死の暗喩そのものである。『葉隠』から読み出した死に対して、三島由紀夫は予定調和と美を付け加えた。隆慶一郎は、それを笑いとロマンに引き戻したのである。
そのロマンのなかで、生は、小さく静かな歩みの輝きも放っている。『死ぬことと見つけたり』は、いつでも犬死の覚悟ができている、いわば生きた死人である杢之助による無鉄砲な活躍に面白さがあるが、その細部には、彼の関わる家族や友人のつながりが、人生の機微をくぐり抜けた情感をもって、しっとりとした風情で描かれている。特に、杢之助の息子と娘に対する態度は、同じように成長した子供を持つような境遇になるとき、じんわりと理解できる人の生活の情感がある。
隆慶一郎という一人の人間の普通の生活の情感が自然な形で死の物語と接していた。あるいは、死という通常は忌むべきなにかが、死の覚悟の自由を介して、日常に笑いながら回帰してくる物語である。その人生の味わいの豊かさが、『死ぬことと見つけたり』からは随所ににじみ出ている。それは三島由紀夫が達成できるはずのものではなかった。
なぜ隆慶一郎はそうした人の生涯の味わいにまで到達したのか。彼をニヒリズムから救済したロマンの意味はどこに起因するのか。そこに彼の若い日のもうひとつの彷徨があった。ポール・ヴァレリーを読むという体験である。『死ぬことと見つけたり』の序章は、『葉隠』についての彼の若い日の個的な再発見と、戦後の三島由紀夫事件などを介しただろう戦後的な発見の合間に、ポール・ヴァレリーを巡る彷徨があった。先の引用を繰り返す。
戦争が終わり、僕は焦土と化した東京へ帰った。戦後の生活は辛くなかったといえば嘘になるが、戦争に較べればなにほどのこともなかった。何より好きな本を選んで読めたし、象徴詩の講義に出ることができた。僕はランボオからマラルメにゆき、ヴァレリにぶつかった。僕はまるまる五年間、ヴァレリという事件の中にいたと思う。やがて絶望が来た。余りにも精緻な言葉の構築物が、僕を拒否するように思えた。それに僕自身が、はやり戦争によって変わっていたのだ、と思う。
隆慶一郎は、「五年間、ヴァレリという事件の中にい」て、「絶望が来た」。彼は、その後の人生の大半を絶望の中で暮らしていたのである。この述懐の意味することは、それでもその絶望から次第に回帰してく過程なかで作家としての目覚めである。『死ぬことと見つけたり』という作品は、彼の青年の日の「ヴァレリという事件」の帰結でもあった。