県名の由来
北海道 江戸末期の蝦夷地探検家・松浦武四郎が、「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6つの案を提言。 先住民族のアイヌが自分たちの地を「カイ」と呼んでいたことから、6案のうち「北加伊道」を基本とし、五畿七道(東海道、東北道、北陸道、山陰道、山陽道、西海道、南海道)になぞらえ、「北加伊道」に「北海道」の字を当てて命名された。
青森 入り江の近くに、松の木が青々と生い茂る青森山があった青森市の市名を県名に制定 した。
その青森山の名前は、

(1)磯馴松(そなれまつ)が青々と茂った小高い森であったからという説

(2)アイヌ語で「ア(接頭語)・オ(高くなったところ)・モリ(突き出た丘)」を意味するという説

がある。いずれにせよ弘前藩が1624年に港を開いたときに青森と命名したことによる。
秋田 『日本書紀』には、秋田の地名が「齶田(あぎた)」と記述されている。その後、まもなくアギタは「飽田」に書きかえられる。「飽田」は、低湿地を意味する悪土などからきた悪田から生まれた地名とも言われている。天平時代には、「秋田」と書かれるようになり、藩名から「秋田県」となった。
岩手 「盛岡市三ツ割の東顕寺(とうけんじ)に注連縄(しめなわ)が張られた三つの大石があり、この石は、岩手山が噴火したときに飛んできた石といわれ「三ツ石様」と呼ばれて人々の信仰を集めていた。このころ、羅刹鬼(らせつき)という鬼が里人や旅人に悪さをするので、困りはてた里人は「三ツ石さま」に「どうか悪い鬼をこらしめて ください」とお願いしたところ、たちまち三ツ石の神様が羅刹鬼を三 つの大石に縛りつけてしまった。ビックリ仰天した羅刹鬼は「もう二度と悪さはしません。二度とこの里にも姿を見せませんからどうぞ お許しください」と許しを乞うた。三ツ石の神様は「二度と悪さをしないと いうシルシをたてるなら」と言われ、羅刹鬼は三ツ石にペタンペタン と手形を押して南昌山の彼方に逃げ去った」。そこでこの地を「岩に手形…岩手」と呼ぶようになったという。
山形 諸説あるが、

(1)「蔵王山のふもとの土地」ということから山形

(2)「山の彼方」の耕地で「山方郷」となり、それがさらに山形になった

さらにはアイヌ語説など諸説がある。
宮城 陸奥国府の多賀城が置かれていた古代の郡名「宮城郡」を県名に制定した。
その地名の起こりには諸説あり、

(1)奈良時代に陸奥国府の多賀城が置かれ、朝廷の出先機関にあたることから「宮宅(みやけ)」と呼ばれていたものが、「みやぎ」に変化して「宮城」の字が当てられたとする

(2)「宮」は古くからある塩釜神社をさし、接尾語の「ぎ」に「城」が当てられたとする
福島 諸説あるが、

(1)明治9年に、当時の若松県、磐前(いわさき)県、福島県が合併して、現在とほぼ同じ姿の福島県 が誕生した。 「福島」の名称は、そのころの県庁所在地だった福島町から取ったもの。そもそのも福島の名前は、1593(文禄2)年(1593 年)ごろ、木村吉清によって、福島城に使われたのが初めてだといわれてる。しかし、詳細な由来は不明とされている。

(2)信夫(しのぶ)郡は昔、見渡す限りの湖で真ん中に信夫山があった。この山には吾妻 おろしが吹きつけていたため、吹島(ふくしま)と呼ばれるようになった。その後、長い歳月を経て、湖が干上がり陸地ができ、次々と集落が生まれた。吹島は風が吹きつけることをきらって、吹を福とし、福島と呼ぶようになった。

(3)福島の中心街一帯はかつて信夫の里の杉目(すぎのめ)郷と呼ばれた地域。1413(応永20)年ころ、当時の伊達盆地の支配者である伊達持宗がこの場所に杉目城(大仏城=だいぶつじょう)を築き、城下町ができた。しかし、 1590(天正18)年、伊達政宗の代に、豊臣秀吉よってさらに北に移され、新しく支配者となった蒲生氏郷(がもううじさと)の領地となる。氏郷は、会津黒川城を本拠とし、伊達盆地の杉目城をその支城としたが、城の名を縁起のいいものにするため、黒川を若松に、杉目を福島にしたと伝えられる。
茨城 県庁所在地の郡名から。
『常陸国風土記』に、黒坂命(くろさかのみこと)が賊(土蜘蛛)を討つために茨で城を築いた、または茨で賊の住居穴を閉鎖したことによると書かれていることから、茨城の名が起こる。ちなみにこの茨城は「うばらき」と読むのが一般的だそうだ。
栃木 諸説あるが、

(1)旧県庁所在地栃木市の中心部に神明宮という社があり、昔この屋根にある千木(ちぎ)と呼ばれる柱が十本に見えたため、「十千木」(とおちぎ)と呼ばれたから。

(2)「栃の木」(とちのき)が多く生えていたから。

(3)栃木市内を流れる巴波川(うずまがわ)に浸食された崩壊地名を表す「ちぎる」に接頭語「と」をつけたもの。

(4)今から1600年〜1700年ほど前に,崇神天皇の皇子として生まれた豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が、全国統一の命令をうけて「下毛野国(しもつけぬのくに)」をおさめた。豊城入彦命は見知らぬ土地で暮らすさびしさに、ふるさとである紀国(きのくに)(現在の和歌山県)の風景に似ている大平山付近を眺めては「遠津紀国(とほつきのくに)」(遠くはなれたふるさとの紀国のようだ)とつぶやいたという。この「遠津紀国(とほつきのくに)」が「とほつ木」→「とつ木」→[とち木]とかわっていき現在の「栃木」に変わっていった。
群馬 古代、朝廷に供給する馬の牧場が多数あった上野国群馬郡を県名に制定。
古くは車評(くるまのこおり)※1とよばれていたが、その起源には諸説あり、

(1)朝鮮からの渡来人が多数住んでいた「呉人の住む土地」が「くるまになった」

(2)古代の豪族「車持君(くるまもちのきみ)」が住んでいたから

(3)川が曲がりくねて流れている地名「くるま」から

和銅6年※2に良き名に変えよとの命があり、群馬という表記になった。それは上記のように馬の牧場が多数あったためといわれる。ただし、「ぐんま」と読まれるようになったのは廃藩置県以降で江戸時代まで「くるま」と読まれていた。
埼玉 県庁所在時の郡名より。
埼玉の名の起こりには諸説あり、

(1)幸魂(さきたま)が変化した

(2)「さき(前)」「たま(多摩)」すなわち多摩郡の奥にある土地の意味

(3)「さき(前)」「たま(湿地)」が転じた

など諸説ある。
千葉 県庁所在地の名称による。
千葉の起こりには諸説あり、

(1)「茅(ちがや)」が生い茂る土地で「茅生(ちぶ)と称され、それが転じた

(2)葛の葉が繁茂する土地の意

(3)侵食しやすい土地で「潰れる」ことを意味する「つばゆ」が転じた

千葉氏が名の起こりとされるのは逆で、千葉に来た平氏が千葉氏を称した。
東京 西の京(京都)に対する東の都の意味。「東亰(とうけい)」と呼ばれた時期もある。
神奈川 1859(安政6)年に江戸幕府がペリー提督と「神奈川条約」を結び、 「神奈川奉行所」を置いたことによる。その名称がそのまま県名となった。
起源は諸説あるが、

(1)神奈川宿にあった小川の水源が不明だったために「上無川(かみなしがわ)」が転じたもの。

(2)日本武尊が東方に赴くさいに、上無川で水面に宝剣が映り金色に輝いたために、この地を「金川」称した。

(3)昔から、神奈河、神名川、上無川など書かれ、これらが変化して「神奈川」になった。
新潟 信濃川の河口の中州に新しい内湾(潟)が形成されたことにちなむ。
長野 扇状地などの傾斜面をさす地名「長野」の市名を県名に制定した。
山梨 県庁所在地の古代郡名から。
語源はヤマナシの木が多いなど諸説ある。
静岡 旧藩名から。
もとは「駿河府中藩(駿府藩)」と呼ばれていたが、「府中」は「不忠」に通じることから、静岡浅間神社の裏手にある「賤機山(しずはたやま)」にちなむ。ただし「賤」は「賤しい(いやしい)」となることを嫌い、「静」の文字を使って「静岡」になった。
富山 中世の郷名による。 古くは「外山」と呼んだが、後に「富山」の佳字をあてた。
石川 明治5年に一時的に県庁が置かれた石川郡美川町の郡名より。
福井 近世の城下町名による。 旧称は「北庄」だが北が敗北につながるという理由で福居、後に「福井」と改称した。
岐阜 1567年、織田信長が入城したとき「井ノ口」を「岐阜」と改名した。 語源は中国の地名「岐山」「曲阜」 の合成地名。
愛知 「年魚市(あゆち)潟潮干にけらし・・・」など、歌枕の「年魚市」が「愛知」に転訛した。
三重 日本武尊の「三重の勾りなして、いと疲れたり」の言葉に由来するなど諸説あり。
滋賀 県庁所在地の郡名から。
滋賀の起こりは諸説あり、

(1)石の多い所を意味する「しか(石処)」が変化した

(2)琵琶湖沿岸の低湿地を意味する「すか(砂処・州処)」が変化した
京都 天子の所在地「みやこ」を意味する普通名詞が地名化したもの。
奈良 平坦な土地を意味することや、朝鮮語の「国」を意味する「ナラ」という言葉からなど諸説ある。
大阪 地形によると言われている。 古代は「小坂」といっていたが、後に「大坂」となり、坂の字が土に返るという意味を連想させることから「大阪」に改称した。
和歌山 旧城下町の「岡山」と、「和歌の浦」にちなんで、「和歌山」としたといわれている。
兵庫 神戸市兵庫区辺りを指す「兵庫」という地名から。
兵庫には、「兵庫津」という港(現在は神戸港の一部)があり、幕末に諸外国と貿易を行うための開港場として指定された。明治政府発足後、周辺の旧幕府領を管轄する兵庫鎮台が置かれたが、この兵庫鎮台は、間もなく兵庫裁判所と改称される。県名に、「兵庫」を冠したのは、役所が置かれた地が兵庫であったか らと推測される。 なお、「兵庫」の地名については、かつて兵器の倉庫が、そこに置かれていたために名付けられたのではないかという説がある。
岡山 岡山市中心部を流れる旭川の西岸にある小高い丘に由来する。
広島 広島城築城のとき、毛利氏の祖大江広元の「広」と、地方豪族の福島元長の「島」を合成して命名した。
鳥取 奈良時代に水鳥を捕まえる人々鳥取部が住んでいたことにちなむ。
島根 県庁所在地の郡名から。
『出雲国風土記』に「嶋根郡」の地名が記されており、現在の松江市がこの郡に属していたことから命名した。
山口 「長門(ながと)の国の方へ行く山道の入口であったということ、また『続 日本紀(しょくにほんぎ)』にある逵理山(きりやま)、現在の東鳳翩山(ひが しほうべんざん)(山口市)にあった鉱山(こうざん)の入口であったということから、里の人が山口と言いはじめたという説」や「もともと山口氏という豪 族(ごうぞく)が古城山(こじょうざん)に城を構(かま)えていたので、その名 にちなんで山口となったという説」など諸説ある。
香川 カバの古木の下から流れ出る水で国中が樹香に満ちたとの伝説より。
徳島 徳島藩祖蜂須賀家政が「渭津」に築城し、のちに「徳島」と改名した。
愛媛 『古事記』の記述に、伊邪那岐の命と伊邪那美の命が国生みをしたとき、「伊予の国を愛比売といひ」とあり、この愛比売が「愛媛」に転化し、現在の県名になったとされる。
高知 土佐藩の城下町に由来。 もとは河内と記し、2つの川に挟まれた所をさす。
福岡 黒田長政が先祖の出身地、備前国福岡(現岡山県長船町福岡)にちなみ命名した城下町名より命名された。
佐賀 県庁所在地の郡名から。
、『肥前国風土記』では「佐嘉」と表記されている。 この佐賀の起こりは諸説あり、

(1)郡の中心部に大きなクスノキが茂っているのを見た日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、「この国は栄の国(さかのくに)と呼ぶがよい」と言ったという『肥前国風土記』の記述に由来し、「さか(栄)」が変化した

(2)「砂洲」「低湿地」を意味する「すか」が変化した

(3)「さか(坂)」が変化した

(4)佐嘉川(現在の「嘉瀬川」)の河口付近は、満潮時に潮流が逆流するため、「逆流する川」の意味で「さか川」となり、これが「佐嘉川」となり、この地域を「佐嘉(佐賀)」と呼ぶようになった
長崎 長い岬とか、豪族長崎氏にちなむなど諸説ある。
大分 『豊後国風土記』によると、景行天皇がこの地に来たと き「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきた)と名づくべし」とし、これがのちに"大分"と書かれるようになったといわれる。 しかし、大分平野は広いとは言いがた く、地形は狭く複雑なことから「多き田」→「大分」との見解が最近の定説。
熊本 加藤清正が築城の際、「隈本」を「熊本」に改名。 語源は熊襲や、地形地名など諸説ある。
宮崎 県庁所在地の郡名から。
平安時代の『和名抄』には「宮崎郡」の名前がある。
「宮」は文字通り「神宮(神社)」のことで、宮崎神宮か奈古神社あるいは江田神社のこととされている。「崎(埼)」は、「前(さき)」のことで、「宮前」が変じて宮崎になったと考えられている。
鹿児島 県庁所在地の郡名から。
薩摩国の郡名として古くからあり、『和名抄』には「カコシマ」という形で見られる。
この郡名の起源については諸説あり、

(1) 「かこ(かご)」は「崖」の意味で、桜島を指した名称が郡名になった。

(2)鹿の子供が島に多く住んでいたことから

(3)多くの「かこ(水夫)」が住んでいたから

(4)桜島の火山による臭気から「かぐ(嗅ぐ)」に由来する
沖縄 那覇市を流れる安里川河口にあった「オキナワノ嶽」に由来する説が有力。

※1 大宝律令により評は郡に改められる。

※2 713(和銅6)年。諸国の風土記編集の勅命により、国・郡・郷名はその土地に合った漢字二文字で表記するように命じられた。



トップへ