2016年07月18日
日常のなかの音楽――細馬宏通『介護するからだ』(医学書院)を読んで
細馬宏通『介護するからだ』(医学書院)が、とても良い本だった。人間行動学者である細馬さんが、介護現場で生きる人々(介護する人/される人)を観察し、そこがいかにマジカルで音楽的(途中、即興演奏ワークショップとの類推が入る)な場所になっているかを描いている。社会的にハンディを負った人の身体をユーモラスに描くという点には大野更紗『困ってるひと』(ポプラ社)を、障がい者の創作のエピソードには荒井裕樹『生きていく絵』(亜紀書房)を、ひるがえって、多くの人のなにげない日常がいかにマジカルなものかを活写する点には槙田雄司『アナーキー・イン・ザ・子供かわいい』(アスペクト)を思い出した。本職のことはあまり書かないようにしているが、読後の勢いとともに、たまには書いてみよう。
運動部の顧問をやっていて、基本的には、真面目に熱血にやっているつもりである(悪しき部活主義には批判しつつ)。でも、そんな真面目で熱血な部活動のさなかにも、おかしくておかしくて笑ってしまうことがある。それは例えば、集合して話をする場面。自分がひととおり話すと、部員たちは「した!」と硬派な感じで返事をすることになっている。自分が就任する以前からそうだ。人によっては、この集団性も軍隊的で嫌悪感を示すかもしれないが、個人的には、集団スポーツであらざるをえないので、許容範囲だと思っている。というか、僕が面白いのは、みんながそれとなく「した!」のタイミングをうかがい合っていることなのだ。この「みんな」には、他ならぬ俺自身も含まれている。俺は、みんなに「した!」のタイミングを誘導すべく、言いたい内容をひとおり言ったあと、「はい、以上です」という意味で、「h‐ぁいじょうsh(無声音‐ス)」みたいな謎の言葉を発する。この微妙な発音については、滑舌がよくないこともあるが、どちらかと言えば、顧問としての威厳を保つニュアンスがある。「以上!」というのはなんとなくしまりが悪い感じがして、とは言え、「はい、以上です」と丁寧語になりきってしまうのは威厳がなくなる。その微細な調整のなかで育まれたのが、「h‐ぁいじょうsh(無声音‐ス)」なのだ。大真面目に、ときには説教臭く話したあとに、「h‐ぁいじょうsh(無声音‐ス)」とかいう謎の言葉を発している自分がおかしくておかしくて。ただ、小説にしても批評にしても、新しい言葉が獲得されるときのメカニズムとか力関係に関心があるので、こういうマジカルな瞬間が自分のときめきの瞬間なのだな、という気持ちがある。ちなみに、前キャプテンは、話し終わるときに必ず「〜ま……しょう!」と、「ま」でためて「しょう!」と強く発していた。この異化された発声も、前キャプテンが少なくない時間をかけて育んだものだろう。
一方、「した!」と返す平部員たちのほうにも工夫がある。『介護するからだ』では、介護現場で頻発される「よいしょ」というかけ声について、次のように指摘されている。
「した!」側の連中は、誰が指揮をとっているわけでもないが、まさにこれをやっているのだ。これは最近気づいたのだけど、連中のうちの誰か、「した!」という直前に、ひとり「shhh」をしのばせているやつがいる。この「shhh」をみんなで感じ取って、「shhh…した!」というタイミングを共同的に合わせているのだ。俺が「h‐ぁいじょうsh(無声音‐ス)」で主導していると思ったら、実際はけっこうな複雑な共同作業だった! こういうときに、俺なんかは音楽性を感じる。このときに言う音楽性とは、柳田國男が民謡に対して指摘した「協働」ということなのだけど、こうやって共同/協働的に新しい言葉が生まれている瞬間が、俺にとって喜びの瞬間なのだ。権力と暴力にまみれがちな学校空間だけど、耳をすませば実にゆたかな音楽が流れている。そして、それは暴力を内側から批判するものだと、直感的に思っているところがある。
運動部の顧問をやっていて、基本的には、真面目に熱血にやっているつもりである(悪しき部活主義には批判しつつ)。でも、そんな真面目で熱血な部活動のさなかにも、おかしくておかしくて笑ってしまうことがある。それは例えば、集合して話をする場面。自分がひととおり話すと、部員たちは「した!」と硬派な感じで返事をすることになっている。自分が就任する以前からそうだ。人によっては、この集団性も軍隊的で嫌悪感を示すかもしれないが、個人的には、集団スポーツであらざるをえないので、許容範囲だと思っている。というか、僕が面白いのは、みんながそれとなく「した!」のタイミングをうかがい合っていることなのだ。この「みんな」には、他ならぬ俺自身も含まれている。俺は、みんなに「した!」のタイミングを誘導すべく、言いたい内容をひとおり言ったあと、「はい、以上です」という意味で、「h‐ぁいじょうsh(無声音‐ス)」みたいな謎の言葉を発する。この微妙な発音については、滑舌がよくないこともあるが、どちらかと言えば、顧問としての威厳を保つニュアンスがある。「以上!」というのはなんとなくしまりが悪い感じがして、とは言え、「はい、以上です」と丁寧語になりきってしまうのは威厳がなくなる。その微細な調整のなかで育まれたのが、「h‐ぁいじょうsh(無声音‐ス)」なのだ。大真面目に、ときには説教臭く話したあとに、「h‐ぁいじょうsh(無声音‐ス)」とかいう謎の言葉を発している自分がおかしくておかしくて。ただ、小説にしても批評にしても、新しい言葉が獲得されるときのメカニズムとか力関係に関心があるので、こういうマジカルな瞬間が自分のときめきの瞬間なのだな、という気持ちがある。ちなみに、前キャプテンは、話し終わるときに必ず「〜ま……しょう!」と、「ま」でためて「しょう!」と強く発していた。この異化された発声も、前キャプテンが少なくない時間をかけて育んだものだろう。
一方、「した!」と返す平部員たちのほうにも工夫がある。『介護するからだ』では、介護現場で頻発される「よいしょ」というかけ声について、次のように指摘されている。
サ行の冒頭の音、すなわち〈sh〉や〈s〉の音は、〈k〉や〈t〉や〈p〉のような子音と違って、「shhh……o」というふうに、いくらでも伸ばすことができる。おもしろいことに、何人かが共同作業をしている現場のかけ声を見ていくと、この〈sh〉や〈s〉の延長音が、お互いの動作のタイミングに関わっている例がいくつも見つかる。
「した!」側の連中は、誰が指揮をとっているわけでもないが、まさにこれをやっているのだ。これは最近気づいたのだけど、連中のうちの誰か、「した!」という直前に、ひとり「shhh」をしのばせているやつがいる。この「shhh」をみんなで感じ取って、「shhh…した!」というタイミングを共同的に合わせているのだ。俺が「h‐ぁいじょうsh(無声音‐ス)」で主導していると思ったら、実際はけっこうな複雑な共同作業だった! こういうときに、俺なんかは音楽性を感じる。このときに言う音楽性とは、柳田國男が民謡に対して指摘した「協働」ということなのだけど、こうやって共同/協働的に新しい言葉が生まれている瞬間が、俺にとって喜びの瞬間なのだ。権力と暴力にまみれがちな学校空間だけど、耳をすませば実にゆたかな音楽が流れている。そして、それは暴力を内側から批判するものだと、直感的に思っているところがある。