巨人、ロッテでプレーし、ロッテで監督を務めた山本功児氏が23日午後1時41分に、肝臓がんのため、福岡県北九州市内の自宅で死去した。64歳。今年、育成枠でDeNAに入団した長男の山本武白志(むさし)内野手(18)の1軍でのプレーを見届けることなく、早過ぎる旅立ちとなった。通夜は25日、葬儀・告別式は26日に神奈川県横浜市のシティホール江田で営まれる。

 山本氏が静かに息を引き取った。関係者によれば、08年から心臓の具合が悪いと話していたという。治療の成果で回復することもあったが、13年ごろには再び体調を崩し、入退院を繰り返していたという。当初は心臓の具合が悪いと話していたが、長い闘病の間にがんを患ったもよう。DeNA球団は死因を肝臓がんと発表した。

 現役時代は左の長距離打者として活躍。ロッテ移籍後の85年は4番落合(現中日GM)5番山本でクリーンアップを形成。当時コーチを務めていた醍醐猛夫氏(77)は「当時、左キラーとして名をはせていた西武永射に対し、『あいつはコントロールがいいから当たることはない。踏み込んで打て』とアドバイスしたところ、すぐに結果を出した」としのんだ。左投手を苦にせず、この年の対左投手の打率は3割4分9厘だった。チャンスにも強く、84年から88年まで、満塁機では44打数19安打、打率4割3分2厘を残した。

 引退後の89年からはロッテで打撃コーチや2軍監督などを歴任し、99~2003年は監督を務めた。打撃指導に定評があり、ロッテ福浦ら多くの主力を育てた。

 05年に巨人コーチを退任後は、息子の成長を何より楽しみにしていた。心臓を悪くした際、医者からペースメーカーを入れるよう勧められたが、「息子にトスを上げられなくなる」と拒否。さらに武白志内野手の九州国際大付(福岡)への進学が決まると、家族全員で神奈川から福岡に引っ越した。

 昨年8月に甲子園に出場した際には、病を押して炎天下の球場で観戦した。同15日の3回戦、作新学院戦で2試合連続本塁打を目の当たりにし「この前の試合のほうがシーソーゲームだったから感動が大きかったけど、いいところで打った。見事な当たりだった」と笑顔だった。

 巨人時代から親交の深い篠塚和典氏(58=日刊スポーツ評論家)は「相手チームともみ合いになった時は、先頭に立って体を張るタイプでした」と実直な人柄をしのんだ。巨人では第43代4番打者として7試合に出場し、29打数11安打、打点6、2本塁打、打率3割7分9厘と4番として高打率を残した。さらに「息子さんがプロ入りされた前後あたりに、再び体調が悪くなったそうで、本当ならばキャンプ地の沖縄に行きたかったでしょうが、それも出来ないようでした」と早過ぎる死を悲しんだ。

 ◆山本功児(やまもと・こうじ)1951年(昭26)12月25日、兵庫県生まれ。三田学園3年春の甲子園に出場し、69年ドラフトで南海3位指名を受けるも拒否して法大進学。本田技研鈴鹿を経て、75年ドラフト5位で巨人入団。当初は同じ一塁の王貞治の控えで、代打の切り札だったが79、80年には球団43代目の4番打者として7試合2本塁打。84年にロッテに移籍し、1、2年目に規定打席到達。87年6月13日近鉄戦で代打逆転満塁本塁打。88年引退。82、85年オールスター出場。84、85年に一塁手でゴールデングラブ賞。89年からロッテ打撃コーチ。97、98年に2軍監督、99~03年に1軍監督。2軍コーチ時代には福浦に打者転向を勧めて才能を開花させた。04年に巨人2軍ヘッド兼打撃コーチ、05年は1軍ヘッド兼打撃コーチ。現役時代は186センチ、84キロ。左投げ左打ち。