さっきぽろん、とLINEが来て妹にこんなことを言われた。
「がんばりすぎないでね。おねえちゃんはもう、十分がんばってるんだよ。」
がんばっている自覚はあんまりないのだけれど、たしかに今すこしだけきもちが落ち着いてきて、ちょっとばかり疲れたような気がしてきた。それでも、なぜかわたしにはがんばるってことしか生きる価値がないみたいなきもちがまだまだ強くこびりついていて、がんばれなくなるのがものすごくこわい。
もちろんこのどうしようもないわたしをずうっと見守りつづけてきてくれた家族の、そういうことばはあたたかく目に映るし、「無理しないでね」と言ってもらえる嬉しさもこころをいっぱいに満たしてくれるんだけれど、それでもわたしはまだ、がんばりつづけなくっちゃ自分には価値がなくなるんじゃないかと酷く怯えている。
これには厄介な事情があって、わたしはそんなふうに、がんばれない自分を認められなくする洗脳をずいぶんと長い時間をかけ、かけてきてしまった。今できるのは、わたしには、書くことしかもうない。
書くことはとっても自由だとわたしは思う。いつでも、どこでも、思い立ったらすぐにでも書き始めることができる。思い描く空想はすべてわたしのものだし、そういう意味ではわたしは自由をそのまま、文字にすることができる。
そういえばきょう、こういう突発的な詩Ver.2を書いた。
shurir.hatenablog.com
この詩に対して「恋してるの?」という質問をもらったのだけれど、正直返答にものすごく困った。いわゆる特定のだれかに恋心を抱くみたいなことが、わたしにはこわくって仕方のないことのように今、思っている。
「えへ☆恋してまーす!」みたいに可愛く言えればいいんだろうけれど、現実の自分はずいぶんとしかめっ面をしながらこの問題について考えていて、結局は恋できないからこそこの詩を書いたんだな、とひとり納得した。
わたしはひとつの物事に執着するとすぐバランスを崩しがちというか、こうして文章を書くうえでも書きながらなんとか、バランスを取りつづけているみたいなところがあり、きっとこれが特定の個人に向いてしまうとたいへんなことになると思う。
それでも最近、わたしはたくさんの愛をもらう機会が増えて、だからこそこうして書けるようになったんだ、ということを考える。きっといろいろなひとが欠けたわたしを認めてくれ配慮してくれるから、そうして受け取った愛みたいなものがわたしのなかにたまって、あふれて、こうして文章になっているんだと思う。
そう考えると、わたしは今とっても幸せだし、このきもちがすこしでも多くのひとに届けばいいなあと思っていて、だからわたしの書く文章はだれかに向けて、というよりより多くのひとに向けて、書いているのだろう。まあ、だからこそ恥ずかしげもなくブログで詩なんて晒せるんじゃないかな。
愛があふれ文章にしている、という割りにはしみったれたことを書いてしまった!
たぶん、もうすこししたらまたすごい!嬉しい!たのしい!みたいなことを書き始めるんじゃないかと思う。とりあえず、上がったり下がったりがめちゃくちゃに激しいジェットコースターに乗っており、いまだわたしは己のポジションを確立していません。
けれどそれはもう、仕方のないことだ。実力不足とも言えるんだけれど、書けなくなるよりかは幾分かマシだし、確実に良き方向へと現実は流れ出しているんだから、こういう自信のない自分とも向き合って、またびゅーんと駆け上がっていくのさ。そう思うな!