異なる「2つの潮流」がぶつかり、勢いのあるものが力を失っていくものを書き換えていく。けれども上塗りされた下には、失われたものがなおも力を失わずに眠っている。ふとした瞬間に塗料が剥がれ、裂けた傷口のような隙間から、失われたはずのそれが姿を見せることがある――。
7月15日に発生したクーデター騒動の報道を見ながら、記者は、トルコという国の文化が抱える独特の「構造」を思っていた。
記者は2013年、反政府デモで揺れるイスタンブールを訪れた。その様子を「ルポルタージュ・イスタンブール騒乱 「強権の首相よ恥を知れ、建国の父は泣いている!」」として執筆した。当時まだタイイップ・エルドアン大統領は首相だった。
その取材の折、イスタンブールの旧市街地に位置する「アヤソフィア」を訪れた。史上、この大堂ほど数奇な運命をたどった建物はないだろう。上記の記事に詳解したが、537年、東ローマ(ビザンツ)帝国の皇帝によってキリスト教の大聖堂として建造されたこの建物は、1453年にこの地を陥落させたオスマン帝国のスルタン(王)によってイスラム教のモスクに作り変えられた。さらに20世紀、トルコ共和国を樹立した「トルコ建国の父」ケマル・アタトゥルクは、この建物を宗教施設ではなく「文化遺産」として位置づけ、博物館にしてしまった。
「キリスト教の大聖堂(東ローマ帝国)」→「イスラム教のモスク、大霊廟(オスマン帝国)」→「博物館(トルコ共和国)」。この“非連続の連続”を、アヤソフィアの壁面に描かれた絵が何より雄弁に物語っていた。
イスラム教では偶像崇拝が禁じられており、モスクの内部で人物画を見ることはない。20世紀の初頭までイスラム教のモスクだったはずの建物の壁面に人物画が描かれているのは、かつてはこの建物がキリスト教の聖堂だったからだ。オスマン帝国によって「上塗り」された塗料が剥がれ落ち、その裏にひそかに息づいていたキリスト教時代の宗教画が露出したのだろう。そして、そもそも私のようにイスラム教徒ではないアジア人がその奥まで足を踏み入れて壁画を眺められるのは、この建物がすでに宗教施設ではなく博物館になっているからだ。
地理的にはボスポラス海峡で「欧州」と「アジア」を接し、歴史的には「キリスト教」と「イスラム教」、そして「世俗主義(政教分離)」と上塗りされ続けて来たトルコ。しかしアヤソフィアの宗教画がそうであるように、上塗りされた塗料の底には失われたはずのものが息づいており、裂け目から時折顔をのぞかせる。新しいものと古いものとのせめぎ合いこそが、トルコという国の文化の特異さを生み出している。
トルコのクーデターをどう評価すべきかどうか、情報が錯綜しておりにわかには断じられない。だから本稿では、「異なる潮流がぶつかり合う場所」であるトルコという国の「構造」を説きつつ、クーデター報道を読み解くために前提となる基礎知識をお伝えできればと思っている。
以下にトルコの政治が抱える3つの「対立構造」を挙げる。いずれもお互いが絡み合っている問題圏であり、単純に切り出せるものではないが、構造を明確にするためにあえて単純化を試みた。