正法眼蔵 古鏡 37
雪峰義存禅師と三聖院慧然禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。
三聖院慧然禅師が「一体どのように急ぐことがあったればこそ、この猿に関する話というものも、我々の意識では捉え得ないものだと言われるんですか」と質問した。この様に言う趣旨は「何でそんなに急ぐ事があるのか」と言っているのである。ここに言う急ぐこととは、現在の事か、明日(未来)の事か、自分自身の事か、自分以外の事か、宇宙全体の事か、中国の中だけの事かなどにつき詳細に思慮をめぐらし十分に検討してみる必要がある。
過去における諸先輩が様々な問答をされているけれども、その問答が全部が全部、頭で理解できるかと言うと必ずしもそうはいかない。「この猿に関する話というものも、我々の意識では捉え得ないものだと言われるんですか」という言葉のうち、「話」という言葉の意味は、すでに話してしまった話もあれば、現に話しつつある話もあれば、これから話す段階にある話もある。今ここで述べられている雪峰義存禅師と三聖院慧然禅師との話は、その言わんとしているところは、単に口先だけの問題ではなしに、現実の問題として展開されている。
この雪峰義存禅師と三聖院慧然禅師との問答も、釈尊が得られた境地と全く同じ境地と考えたらいいのであろうか。話のほんの糸口といえども、それが現実に人の口にあがる瞬間においては「もう一度やり直してみましょう」と言う訳にはいかないのである。この様であるから、話の糸口でさえ頭に浮かんでこないと言うのである。
粱の武帝が達磨大師に出会った時に、粱の武帝が「自分の前にいる者は何者か」と質問されたときに、達磨大師が「わかりません、言葉では表現できません」と言われたことに通ずるのである。達磨大師は達磨大師であり、粱の武帝は粱の武帝であり、お互いが見合っていても、お互いによく相手がわかるという形のものではない。ここに、雪峰義存禅師と三聖院慧然禅師との問答が明らかに存在しておる。決してその問答がないと言う事は言えないけれども、それを単に頭だけでどう理解しようかと求めても無駄である。
言葉でとらえられないもの、頭でとらえられないものとは何かといえば、我々の日常生活における瞬間瞬間の真心である。はっきりわかっているけれども、それが何であるかという事は、言葉で表現できない何かである。
―西嶋先生の話―
--つづき
仏教と言う思想は、神を信じると言う事でもない。神を信じないかと言うと、そういうことでもない。それよりももっと、自分自身を取り巻いている現実を見つめて、その現実の中に神と言ってもいい様な非常に尊いものがあると言う見方をする。人間の中には、もちろん動物的な性格もあるけれども、それが決して非難すべき事ではなくてそういうものをも含めて非常に尊い存在だと言う考え方をする。
だから仏教と言う宗教は人間を中心にした宗教だと言う事が言えると思う。こういう考え方は、今日はわりあい少ない。大抵の人が人間はこうあるべきだ、世の中はこうあるべきだと言う。神を基準にしたいろんな考え方を持っている。そして、自分でもそれに努力して近づかなければならないと思っているし、自分より人にそれをさせようと思う。こうしなさい、あしなさい、こうしなければ駄目ですよという事が盛んである。ところが、そういう努力が駄目だと言う見方もこの世の中にはある。そう都合のいいことを言ったって、そううまく人の言うことには乗らないよという事になる。常に現実の裏、裏と見て回って、現実を否定していこう、つき崩していこうと言う考え方もある。
仏教はその両方を、必ずしも正しい生き方ではないと見た。仏教と言う思想は、神というものとの関係から見ると汎神論と言われる事が一般的である。この汎神論は、我々の周囲にある一切のモノの中に、神と同じような性質が入っていると言う考え方である。黒板の中にも、壁の中にも、机の中にも尊いものがある。我々自身の中にも尊いものがある。誰の中にも非常に尊いものがある。そういう考え方が汎神論である。
こういう考え方に対して、普通の宗教は有神論(神が人間とは別にあって、この世の中を支配していると言う考え方)がある。無神論(神などはいないと言う考え方)がある。そういう点では、仏教はこの現実の我々が生きている世界の中に、宇宙の中に非常に尊いものが含まれていると、そういう考え方をする。
つづく--
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三聖院慧然禅師が「一体どのように急ぐことがあったればこそ、この猿に関する話というものも、我々の意識では捉え得ないものだと言われるんですか」と質問した。この様に言う趣旨は「何でそんなに急ぐ事があるのか」と言っているのである。ここに言う急ぐこととは、現在の事か、明日(未来)の事か、自分自身の事か、自分以外の事か、宇宙全体の事か、中国の中だけの事かなどにつき詳細に思慮をめぐらし十分に検討してみる必要がある。
過去における諸先輩が様々な問答をされているけれども、その問答が全部が全部、頭で理解できるかと言うと必ずしもそうはいかない。「この猿に関する話というものも、我々の意識では捉え得ないものだと言われるんですか」という言葉のうち、「話」という言葉の意味は、すでに話してしまった話もあれば、現に話しつつある話もあれば、これから話す段階にある話もある。今ここで述べられている雪峰義存禅師と三聖院慧然禅師との話は、その言わんとしているところは、単に口先だけの問題ではなしに、現実の問題として展開されている。
この雪峰義存禅師と三聖院慧然禅師との問答も、釈尊が得られた境地と全く同じ境地と考えたらいいのであろうか。話のほんの糸口といえども、それが現実に人の口にあがる瞬間においては「もう一度やり直してみましょう」と言う訳にはいかないのである。この様であるから、話の糸口でさえ頭に浮かんでこないと言うのである。
粱の武帝が達磨大師に出会った時に、粱の武帝が「自分の前にいる者は何者か」と質問されたときに、達磨大師が「わかりません、言葉では表現できません」と言われたことに通ずるのである。達磨大師は達磨大師であり、粱の武帝は粱の武帝であり、お互いが見合っていても、お互いによく相手がわかるという形のものではない。ここに、雪峰義存禅師と三聖院慧然禅師との問答が明らかに存在しておる。決してその問答がないと言う事は言えないけれども、それを単に頭だけでどう理解しようかと求めても無駄である。
言葉でとらえられないもの、頭でとらえられないものとは何かといえば、我々の日常生活における瞬間瞬間の真心である。はっきりわかっているけれども、それが何であるかという事は、言葉で表現できない何かである。
―西嶋先生の話―
--つづき
仏教と言う思想は、神を信じると言う事でもない。神を信じないかと言うと、そういうことでもない。それよりももっと、自分自身を取り巻いている現実を見つめて、その現実の中に神と言ってもいい様な非常に尊いものがあると言う見方をする。人間の中には、もちろん動物的な性格もあるけれども、それが決して非難すべき事ではなくてそういうものをも含めて非常に尊い存在だと言う考え方をする。
だから仏教と言う宗教は人間を中心にした宗教だと言う事が言えると思う。こういう考え方は、今日はわりあい少ない。大抵の人が人間はこうあるべきだ、世の中はこうあるべきだと言う。神を基準にしたいろんな考え方を持っている。そして、自分でもそれに努力して近づかなければならないと思っているし、自分より人にそれをさせようと思う。こうしなさい、あしなさい、こうしなければ駄目ですよという事が盛んである。ところが、そういう努力が駄目だと言う見方もこの世の中にはある。そう都合のいいことを言ったって、そううまく人の言うことには乗らないよという事になる。常に現実の裏、裏と見て回って、現実を否定していこう、つき崩していこうと言う考え方もある。
仏教はその両方を、必ずしも正しい生き方ではないと見た。仏教と言う思想は、神というものとの関係から見ると汎神論と言われる事が一般的である。この汎神論は、我々の周囲にある一切のモノの中に、神と同じような性質が入っていると言う考え方である。黒板の中にも、壁の中にも、机の中にも尊いものがある。我々自身の中にも尊いものがある。誰の中にも非常に尊いものがある。そういう考え方が汎神論である。
こういう考え方に対して、普通の宗教は有神論(神が人間とは別にあって、この世の中を支配していると言う考え方)がある。無神論(神などはいないと言う考え方)がある。そういう点では、仏教はこの現実の我々が生きている世界の中に、宇宙の中に非常に尊いものが含まれていると、そういう考え方をする。
つづく--
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