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巨人の肩から眺める『現代思想史入門』

 ガルシア=マルケス『百年の孤独』で、数学だけに異様な興味を示す天才が出てくる。まともな教育を受けたこともなく、あらゆる文明から遠く離れた廃屋に一人で暮らし、すべての情熱を数学に注ぎ込み、一生をかけて二次方程式の解法を独力で見つけだす。

 男は天才だが、愚かなことだと思う。ただ一人の思考だけで、まったくのゼロから、二次方程式の解の公式を導くまで才能を持っているにもかかわらず、それだけで一生を費やしてしまったのだから。男は幸せだっただろうが、もし教育を受けていたならば、その思考はさらに先の、もっと別ところへ費やすことができただろうに。

 「こんなこと考えるのは私だけだ!」と叫びたくなるとき、このエピソードを思い出す。オリジナルなんて存在せず、要は順列組み合せ。デカルトやサルトルといった哲学者でさえも、完全に無から生み出したわけではなく、時代の空気に合わせ、過去の知的遺産をまとめたり噛み砕いた、知の結節点の"ラベル"にすぎない。すでに誰かが考え抜いており、その残響がめぐりめぐってわたしの脳に届いたにすぎない。

 たとえば、「物理学とは、(人に理解できる因果律にまで)世界を咀嚼するためのモデルとパラメータいじりにすぎず、世界"そのもの"ではない」とか、「人の有益性というものは、(目的が先にあって生み出される)モノと異なり、あとから決まってくるものであるべき」など考えたことがある。それぞれ、人間原理、物自体、実存主義という用語を知るまで、独りあれこれ考えたものだ。

 「~とは何か」という問い(=哲学すること)は、やめようと思ってもやめられない。世界を知りたい/自分を分かりたいという、根源的なレベルの欲望なのだ。『百年の孤独』の男はまさに才能の無駄遣いだったが、凡人のわたしには人生の無駄遣いになりかねない。そういうわたしにとって、この『現代思想史入門』は大変ありがたい。

 なぜなら、本書のおかげで、現代思想がどこまで考え抜かれていて、どういう限界にぶち当たっているか、見えるようになったから。どちらが獣道で、そのルートのどこから科学と整合性が取れなくなっているか、先人どうやって乗り越えようとしてきたのかが、巨人の肩からよく見えるから。ひょっとすると一生迷っていたかもしれない思索の隘路を、予め迂回するか、それとも覚悟と準備を完了させて突入するか、選ぶことができるから。

 本書は、現代思想の全体像を捉え直す目的で著された。現代の状況を読み解くため、ここ150年に渡るさまざまな原理や基準についての言説の変遷をさらえなおしている。進行中は曖昧で難解に思えたあの思想や哲学も、振り返ってみればまさに「後知恵」として総括される。難解だからこそ有り難がっていた滑稽さも併せて楽しめる。

 とてもユニークな点は、現代思想を「思想の地層」として斬ってみせているところ。「思想史」なんだから、普通なら時系列に、主要人物を並べてみせたり、時代と絡めて解説したりするだろう。ところが本書はそんなことしない。生命、精神、歴史、情報、暴力という5つの層で時間軸を横断してみせ、その斬り口から覗く思考のフレームワークを解説する。だから、この一冊を読むことで、現代思想を5周するわけだ。

 そして、注意深く避けている点は、対立を見いだす近代的発想だ。このテの話によくある、「近代vsポストモダン」や「自由vs逃走」など、時代や制度の同一性に基づき、対立を見いだすことそれ自体が近代的発想なのだと指摘する。だから時間軸を縦に区切って「ナントカ前」「ナントカ後」の構造ではなく、斜めの断面図(=価値観点)から上下の関係で示そうとする。

 そんな魅せ方で何周も現れてくるのが、フーコーの言説だ(これがめっぽう面白い)。たとえば生命政治の観点。ひとびとを「群れ」とみなし、その生活状態を集団的な現象として長期に最適化することを目指す政治だ(最大多数の最大幸福の実践編)。できるだけ多くの人が、ちょうどよい数だけ生まれてくるように管理する、持続可能な政治だ。優生学の影をまといつつ、現代の医療制度のなか、福利厚生政策の裏側、社会保障政策に透けて見える。民族や人種にしちゃうとバックドラフトを起こすので、「国民の生活を優先して」というお題目(=スローガン)で浸透する。

 「精神」の断面からフーコーを見ても面白い。何が正常で何が異常か、それがどんな病名と治療が必要かは、国家によって認知された医者だけによって判断される。(その中で普通に暮らしているわれわれにとっては)しごくあたりまえに見えるが、歴史的には珍しい発想であり、それが臨床医学(クリニック)と呼ばれるものだという。暴力を担保にして自由か隷属かを選ばせる近代的なやり方ではなく、「死に至る病」とか「不安の概念」を使って健康知を浸透させる。

 これは、健康をモラル化した社会に疑義を唱える『不健康は悪なのか』でフーコーの指摘が顕在化している。「健康」という言葉に隠されたイデオロギーが、授乳キャンペーンや製薬ビジネスを例に暴かれる。

 著者は、フーコーやサルトル、ドゥルーズ+ガタリに成りきって、思想史を幾度も斬りつける。その憑依っぷりはたいへん面白いのだが、ときどきそこから著者の本音が滑り出てくる。同じ時代を生きているのに、その"地"がわたしと大きく異なっていて、それがさらに面白くさせている。

 わたしからすると、哲学は物理学と同じで、道具にすぎない。(それが許される時代での)「正当性の基準」だったり「思考のフレームワーク」であって、時代や文化を貫く普遍的価値みたいなものでは(もはや)ない。著者は、『千のプラトー』以降、世間を震撼させるような思想が現れていない「宴のあと」状態なのを嘆いて、思想のすべてが行き詰まっている状態だとする。

 だが、わたしは同じ状況から、哲学という道具の「エビデンス」に価値基準が移っているだけにすぎないとみる。記された歴史によって価値が決定されるのなら、新たな言説がたとえ焼き直しであったとしても、話され・聞かれる価値があるのは、エビデンスがあるか否かに依る。いかなる主張だろうと、エビデンスがなければ、それは「あなたの感想ですよね?」になる。さもなくば、「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」だ。

 哲学者はどこにいるのか? 大学で哲学史を教授しているだけでなく、人工知能や認知心理学、進化医学、認知科学の一線で実践している。たとえば、ダニエル・デネット、AIと心の科学ので哲学を実践している。あるいは、鈴木貴之、脳と意識のハードプロブレムを、いかに認知科学的に解けるか取り組んでいる。本書の肩から眺めると、どのルートが考え抜かれているかがよく見える(まずはフーコーをちゃんと読む必要があることも……)。

 現代思想の肩に乗り、その意義を探りつつ全体を俯瞰する一冊。

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