『シン・ゴジラ』最速レビュー!現代日本に現れた完全生物を媒介にする“現実 VS 理想”物語
日本村の“現実”描写の圧倒的なリアリティ
現実とは、過去から形成されるもの、という意味では“現実 VS 過去”の側面もある。ゴジラに破壊された町を目の当たりにした、主人公・矢口蘭堂(長谷川博己)が祈りを捧げるシーンに、東日本大震災を想起する観客も少なくないだろう。ゴジラ対策チームを牽引する内閣官房副長官の矢口は、破壊されてゆく街を眼前にしてもなお、海の向こうから電話一本で横暴な支持を出す米国の、属国に甘んじる道を外れようとはしない日本政府の対応について、内閣総理大臣補佐官の赤坂(竹野内豊)に「戦後は続くよどこまでも。だから諦めるんですか?」と噛みつく。そんな矢口とともにゴジラ対策に挑む米国大統領特使のカヨコ(石原さとみ)は、第二次世界大戦で被爆した日本人の祖母を持つ日系3世の設定だ。ゴジラの出現で、70年以上も前の苦い記憶が呼び覚まされていく。
日本政府・ゴジラ対策チームのメンバー、環境省の尾頭(市川実日子)が「ゴジラより怖いのは、私たち人間ね」と吐き捨てるシーンも印象的だ。ゴジラ出現によって、人間の恐ろしさをも映し出す本作は、公式サイトにアップされた庵野総監督のコメントの言葉を借りれば“現実のカリカチュア”だ。本作のゴジラの目は、庵野総監督の強いこだわりから、いちばん怖い人間の眼をモデルにしたと聞く。さらに本作で謎の巨大生物を「ゴジラ」と名づけ、消息を絶った教授(シリーズ第1作へのオマージュを捧げられたキャラクター)は、宮沢賢治の詩集『春と修羅』を残した。修羅(阿修羅)とは仏教で、自分の正義に固執した結果、善心を見失い、悪となって天界を追われたとされる。我々人間は、地球上で、身勝手な正義にこだわって来なかったか? という一石を投じられた気分になる。
庵野総監督の自負心を感じさせる、映画で描く“理想”
日本のために一丸となって、世代も境遇も違う人たちの輪ができていく様子には、確かな共感がある。チームを支える日本的なモチーフにもグッとくる。不眠不休で仕事に励むチームのメンバーに差し入れられる、おにぎりや熱いお茶に込められた心遣い。忙しい中でも、食事の後には「ごちそうさま」と挨拶を忘れないメンバーの感謝の気持ち。小さなエピソードの積み重ねが、チームの中にふしぎな一体感を生む。と同時に、それを目撃する観客の心に、果たしてこれは“理想”に過ぎないのだろうか? という疑問が浮かび上がるのだ。
10年後、すなわち40代で内閣総理大臣のポストを狙い、出世街道を突っ走ってきた矢口が、最初の異常事態に関する対策会議の席で、柄にもなく「巨大不明生物」の可能性を提言して、一笑に付されるシーンがあった。政治家となった矢口の心にも、ゴジラに魅了された、少年の頃の自分が潜んでいたということだろう。現在の自分を形作る、過去の自分の未知なる世界や未来への憧れ。……もしも映画が“理想”を描くものであるならば、本作のテーマは“現実 VS 映画”と言ってもいいかもしれない。そんな庵野総監督の強烈な自負心も感じた。未来へつなぐ問題提起と未来に残る感動を心に刻む、日本が世界に誇る、新しいゴジラ映画が誕生した。
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