誰かに認められなければ何もする資格がないと思っていた。逆に考えれば、誰かに認められればそれで良いと思っていた私の思いに疑問が湧いたのかもしれない。経験と勉学によって私の中で確固たる信念が出来上がりつつあった。いずれも浅はかなものではあったが、私にとっては充分だった。自分が認めている誰かに認められる喜び、安心感。しかしそれも私にとって私を縛る鎖なのではないかと疑いつつある。
生き方。
様々な段階を乗り越えて今の自分がある。たくさん泣いて傷ついてきた私の、せめてもの慰めが誰かに認められることであった。なぜならその方が苦しまないで済むからだ。誰かに判断の全権を委ねてしまえばあとはもう悩まなくて良いからだ。そう気付いて私は、他人に認められるにはどうすれば良いか、どうすれば他人から評価されるかばかり考えて行動していた。相手の求める上澄みだけすくって叶えてしまえば楽だった。それは例えば金で物を買って与えたり、程度良い言葉を投げかけ続けることだったりする。心がなくても行動や言葉だけで認められるのであれば、自ら進んでそれらを繰り返した。もはやそれは行動ではなくただの作業だと思っていた。
大人になればなるほど上澄みは濃く深くなっていく。求められるものの難易度が上がり、自分への負担も増し、気づけば疲れ果てた私がいた。
なぜ他人に認められるためにこんなに辛い目にあわなければならないのだろう。私の他にも好き勝手やっていても認められている人はたくさんいるのに。認められるという作業に疲れた私は、他人に認められる価値のない人間だと考えるようになった。自分などいる価値がない、だって認められなければ生きていけないのだから。
ボロボロ崩れる音が聴こえる。私などいる価値がない。生きていくだけの価値がない。他人に認められなくなった自分には何も残っていない。
底の見えない穴に吸い込まれていくようだ。もう何もせずに消えてしまいたい。
そう考えたとき、自分の心が少しだけ見えた。自分が大嫌いな自分のことが。自分を認められない自分が。
自分が大嫌いだから誰かに好かれていたい。認められていたい、嫌われたくない。もう誰にも嫌われたくないみっともない私の沼の様などろどろしたものが見えた。
かつて自分で自分のことを認めたことがあっただろうか。私が一番、私に対して否定的だった。それはなんであれ、私の弱さだと思う。弱い自分を認められないから他者に認められようとして、他人に依存して期待して落胆する。それで自分の人生を生きられるわけがない。生きていて辛いことばかり考えるわけだ。
そう思ったら少しだけ楽になった。
自分のつらさなんていうのは結局のところ自分にしかわからないので自分で解決するしかない。と自責の念にかられずにどら焼きとお茶は合うわねというささやかな幸せに包まれたい。
— ポンコつっこ (@ponkotukko) 2016年7月19日