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学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、活動家にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

3人の酔っ払いによる憲法談義①:「戦争放棄って何?」

憲法改正

何かと話題の憲法改正
けれどもこれがわかりづらいと思っている方も、多いのではないでしょうか。
特に9条は複雑怪奇で、その解釈は憲法学者の特権事項のようになっています。

「それでいいのか」という問題意識に駆られた私は、憲法を勉強して、主な論点と代表的解釈をまとめてみることにしました。
しかし、この作業が眠たい。憲法学って、神学論争みたいで退屈です。
そこで、中江兆民『三酔人経綸問答』に習って、3人の酔っ払いが登場する対談形式にしてみました。(中江の著作に出てくる3名とは、大きく思想・立場が異なります)。

第1回のテーマは、「戦争放棄って?」です。

登場人物紹介

・洋学紳士:東京帝国大学卒業、フランスにも留学した超エリート。順風満帆な学者人生を送ろうとしていたが、太平洋戦争が開戦。戦地に送られ、軍隊では自分より学歴の低い上等兵に散々に虐められる。「畜生・・・こんな阿呆に何でこの俺が殴られなければならないんだ」。この経験から、戦争は絶対反対という立場をとるようになった。

・東洋豪傑君:大東亜共栄圏の理想に燃え、戦争中は第一線で果敢に戦った血の気の多い男。日本国敗戦の報を、涙を流しながら聞く。「畜生・・・何でアメ公に押し付けられた憲法に、誇り高い日本国民が従わねばならんのだ」。とはいえ、出来てしまったものは仕方がない。自主憲法制定を目指しながらも、今の9条の下で日本を護らなければという思いに駆られている。

・南原先生:3人の中では1番年下の知識人。戦争の事は幼かったのでほとんど記憶にないが、あの戦争は間違っていたと思う。やっぱり平和が一番と思うが、今度はアメリカとソ連が仲悪そうだ。どうやら「戦争反対!」と叫んでいても、平和は訪れなさそうなので、9条を柔軟に解釈しなければと考えている。

戦争放棄」って?

日本国憲法第9条は第1項では、「戦争放棄」が謳われています。これはわかりやすそうでいて、難しい。「戦争」といっても色々あるのです。

第2章 戦争の放棄
①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

洋学紳士:さて、これから日本国憲法について話すわけだけれども、それにしても素晴らしい憲法だと思う。この憲法は永久に護っていかなければならないね。

東洋豪傑君:貴様、何を言っている。こんなアメ公から押し付けられた憲法を素晴らしいと言うなんて、全く馬鹿げている。さては共産党員だな。お前のような売国奴は、ソビエトに帰れ!

南原先生:まぁまぁ落ち着いて。私たちは立場は違うけれど、3人とも日本人。日本のためを考えている点では共通です。その上で違う点は違うと認めながら、建設的な話し合いをしましょう。

洋学紳士:その通り。さて、まず9条の第1項だけれども、「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使」を永久に放棄すると言っている。つまりどんな戦争も許さないと言っているんだ。全く、世界に誇れる先進的な憲法だね。

東洋豪傑君:いやいや、待て待て。これは全ての戦争を放棄してるんじゃない。確かに、領土拡大を目的にした侵略戦争はダメだろう。しかし、他国から攻められた時に自国を守る「自衛戦争」は放棄していないはずだ。また、やられたらやり返す「報復戦争」も当然許される。

洋学紳士:君のような人間が、「自衛戦争」だの何だのと大義名分を掲げて戦争に突入するんだ。そうやって言い訳をしながら、中国などのアジアの国々を侵略したんだろう。一度、南京に行って、中国人に謝罪してくればいい。

東洋豪傑君:聞き捨てならん。あれは、「大東亜共栄圏」を築くための聖戦だったのだ。中国人などアジアの同胞のためを思って行った、正義の戦争だ。

南原先生:歴史の解釈は置いておきましょう、憲法が話題ですから・・・洋学紳士さん、自衛戦争がダメということは、他の国から攻められたらどうするの?

洋学紳士:そんな事は、今の平和な時代にはありえない。戦争の前に、対話に基づいた外交をするべきだ。

南原先生:仮定の話です。現に、お隣朝鮮では戦争がありましたし、アメリカとソ連の対立も激化しています。何があるかわかりません。

洋学紳士:んー、そういう仮定ならば、非暴力・無抵抗を貫くべきだろう。防衛中とは言っても、殺人は殺人だ。悪である事には変わりない。

東洋豪傑君:だから貴様は何を言っているのだ?国滅びるのを座して待てというのか?

洋学紳士:日本は世界史的役割を持っているんだ。国が滅んだとしても、絶対平和を貫いた国家として歴史に残るはずだ。我々はその実験国になればいい。

東洋豪傑君:呆れた、本気で言っているのか。この「美しい国」を滅ぼすとは、やはりお前はソ連の手先のようだな。

南原先生:まぁまぁ、レッテル貼りはやめましょう。うーん、私は、東洋豪傑君さんの言う「自衛戦争」は違憲だけれども、「自衛権の行使」は許されると思います。

東洋豪傑君:何を詭弁を使っているのだ?「自衛戦争」と「自衛権の行使」の何が違うのだ?

南原先生:「自衛戦争」も立派な戦争ですし、第1項でやっぱり放棄されていると思います。僕の言う「自衛権の行使」とは、それにしっかりと制限をかけるというものです。①現実に日本が攻撃されていて、②他に手段がなくて、③それが必要最小限ならば、実力を行使してもいいと思います。

洋学紳士:いやいや、だから日本国憲法は全ての戦争を放棄しているんだよ。たとえ制限をしたとしても、戦争は戦争だ。

南原先生:憲法13条を読んでみてください。「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を守るって書いてあるでしょう。つまり、国民の生命を護らなきゃいけない。憲法はそもそも国民を守るものなんです。外国が来ても何もしないっていう東洋紳士さんの意見は、これと矛盾しているように思います。

解題

やはり、南原先生の立場がかなりわかりづらくなってしまいましたが、それぞれ酔っ払い3名は、以下の立場を代表しています。

●洋学紳士・・・日本国憲法は、侵略戦争はもちろんのこと、自衛戦争も放棄している。
●東洋豪傑君・・・日本国憲法は、侵略戦争を放棄しているだけ。自衛戦争は当然許される。
●南原先生・・・日本国憲法は、侵略戦争自衛戦争どちらも放棄している。ただし、国民の生命を守るため、必要最低限の実力の行使は認められる(政府の立場ならびに憲法学のマジョリティ)

次回・・・いつになるかわかりませんが、「自衛隊違憲か」というテーマでやろうと思います。

 

「母校愛」という暴力:甲子園と箱根駅伝の思ひ出

創価学園 創価大学 雑記

(この記事は、雑記・戯言であり、これを読む事は全く時間の浪費であり、活字を追う努力は全く徒労に終わることを、予めご注意下さい)


創価高校の甲子園出場と創価大学箱根駅伝出場は、よく覚えています。
学校内や学会男子部の組織、OBの友人が熱に浮かされたように喜んでおられました。
その熱狂ぶりを、私は苦虫を噛み潰したような顔(周囲にはそう映っていたに違いない)をして見ておりました。

そもそも私は、高校野球と駅伝への関心は皆無であります。
炎天下のもとで安物感満載のメガホンを叩き、よく知りもしない坊主頭の高校生の名前を絶叫する心理が、全く理解できません。コンサートホールで聞くと大層美しいブラスバンド部の演奏が、野球場に流れると極めて下品に響く事は、長年の謎でもあります。
駅伝に関してもそうです。ガリガリの大学生がその痩せ細った腕脚を露出し、走ったり、坂を上ったり、タスキを渡したり、渡せなかったり、脚を痙攣させたり・・・といった光景を見ても、全く面白いと感じません。
そもそも、公道を占拠しすぎです。やるなら、陸上競技場の中でやって欲しい。もしも私の住居の近くでそんな迷惑行為をやられたら、決死の覚悟で抗議をします。

甲子園と箱根駅伝、どちらも国民的行事という位置付けなのでしょう。
しかし、私のように無関心な人間や、中には嫌悪感を覚えている人間も一定数いるはずです。
だが、その国民的イベントに参加していたり、熱狂している人間には、それが見えない。
高校在学時に、全校集会で野球部の連中が全員前に並び、挨拶をする場面がありました。その際に野球部主将が放った第一声は、以下のようなものです。

「皆様、いつも応援していただき、誠にありがとうございます」

この一言に、その傲慢さが象徴されているように思います。
この野球部主将は、自分の発言に対して、「いやいや、俺はお前らなど全く応援していないから、感謝される筋合いはない」という反論が来ることを、全く予期できていない。つまり、自分の眼前にいる集団は1人も漏れなく、自分たちを応援しているファンクラブだと錯覚しているのです。こんなに傲慢不遜なことはありません。

それに対し、部員4名のジャズ研究会が小さなコンクールで入賞した時の挨拶は、非常に好感の持てるものでした。

「私たちを応援してくださった方々のおかげで、入賞することができました。ありがとうございました」

この方は、自分たちを応援しているのはごくごく一部の人間であり、大多数の人間が自分たちに興味を有していないことを熟知しています。私はこれを聞き、ジャズ研究会を陰ながら応援することに決めました。

創価大学が駅伝に出場した際には、至る所で話題になりました。
6人ほどが出席していたある男子部の会合でも、創価大OBの先輩の一言を皮切りに、駅伝談義が盛り上がりました。何でもその先輩は、実際に沿道に足を運び、選手を応援したそうです。

私は全く興味ありませんでしたから、会場に行っていないのは勿論の事、テレビ中継も見ておりませんでした(後に最下位だったと聞いた時には驚きました)。
「貴重な正月休みを、寒空の下で三色旗を振ることに費やす神経がわからない」という会話への突入が場を凍らせる事くらいは承知しておりましたので、私は黙っておりました。

すると、その男子部の先輩が「お前は会場に行ったのか」と私に話を振ってきました。
私が「行っていないし、中継も見ていない」と返すと、その先輩は「なぜだ」と尋ねてきました。
興味がないからだと正直に答えると、先輩は信じられないという表情をし、「なぜ興味が無いのだ」と追及してきました。
興味が無い理由を説明するのは大変な難題です。ですので、「世界では全てが自然法則だけによって生起するか、という哲学的命題に私は関心があります。けれども先輩は無いでしょう。その理由は何ですか」と質問返しをすると、先輩はムッとした表情で「お前には母校愛が無いのか」と言ってきたのです。
これが癪に障った私は、「この前大学のアンサンブル研究会がコンクールで入賞しました。先輩は会場に行きましたか」と質問。すると先輩は、「行っていないし、そんなマイナーなものは知りもしない」と激昂。私は落ち着いて「聖教新聞に載っていましたけどね」と返すと、駅伝談義の前に「聖教新聞を読もう」と語っていた先輩は沈黙しました(この反論方法は卑怯であったと反省しております)。

長々と書きましたが、要するにこういう事です。
自分が好きなものは他人も好きなのだと考えている人間は、非常にタチが悪い。
合コンで恋愛シュミレーションゲームについて熱く語って場を白けさせる、オタクのようなものです。
さらに、その好きなものを共有している人間が多数派を占めると、非常に厄介です。
高校野球や駅伝に興味が無い人間も一定数いるはずなのに、それを表立っていう事ができず、熱狂的な人間に合わせなければならなくなってしまう。
もしそれを公言すれば、母校愛が無いと言われ、非国民扱いされる。これは大変な暴力であると思います。

間もなくオリンピックが始まるので、多くの国民の関心がそれに集中するでしょう。2020年の東京オリンピックでは、常軌を逸脱する程、日本人は熱狂するでしょう。
しかし、それに興味が無い人間もいるのだという事を、広く認識してもらいたい。

私は今回も、オリンピックは一切見ません。

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公明党は「変質」したのか:創価学会のセルフイメージとのギャップ

創価学会 創価大学 公明党 牧口常三郎会長 戸田城聖会長 池田名誉会長

公明党は変質した」「自民党化している」「平和の党の看板を捨てた」・・・

昨年の安保法案成立ををめぐり、何度となく発せられた公明党への批判です。
私も当時その一部始終を見ながら、同じような感想を持ち、公明党の「変質」を嘆いていました。

しかし、公明党がどう「変質」したのかといえば、答えられずにいました。
例えば、「公明党は平和の党ではなくなった」という主張は、「かつては平和の党だったが、今は違う」という認識に基づいています。しかし、その「かつての公明党」とはどのようなものだったのか。

本日の記事では、公明党の歴史を振り返ってみたいと思います。結党50年を経る中で様々な変節を経てきた公明党ですが、今日につながる「同質性」があることを明らかにできればと考えております。
憲法改正を巡り日本が大きく動こうとしています。その中で一定の役割を果たすだろう公明党の性質について考えることは、決して無駄ではないでしょう。

公明党は「平和の党」か?

公明党は平和の党」とは、よく聞くと思います。それは、結党以来、左派な立場をとり続けてきたのだろうという印象を与えます。
しかし、これまでの公明党の外交・安全保障保障をめぐる議論は、その時々によって、「保守」から「革新」まで、大きく変わっています。

一例として、同党の「日米安保」を巡る立場を見てみましょう。
1964年の党大会において公明党は、「将来どこからも侵略されないと保障が出来次第、日米安保体制を解消する」としています。「どこからも侵略されない」状況を想定するのは困難ですので、安保解消に積極的でないやや保守的な立場と読み取る事ができます。
それが、1973年の党大会では、「日米安保条約」の即時撤回を主張するに至ります。これはかなり革新的な主張です。
しかし、1981年には「存続はやむを得ない」と保守路線に舵を切るのです。

また、自衛隊を巡る立場も確認しておきましょう。
今回の参院選で、公明党候補は、「共産党自衛隊違憲と言っている」と批判しました。
しかしその公明党自身も、1973年に「自衛隊違憲の疑いがある」という見解を示していたのです。
とはいえその見解も、1981年には覆しており、条件付きながらも「合憲」と認めています。

さらに1992年にはPKO協力法が成立しますが、これは公明党も強く推進しました。さらに2000年代初頭には、テロ特措法や有事法制イラク特措法に賛成しています。
そして、2015年には安保関連法を成立させてたのです。

このように、公明党の外交・安全保障政策は、「ブレブレ」です。
これは、社会党左派との連携を模索しながらも挫折し、結局自民党との協力せざるをえなかったという政局判断に基づいています。

このような歴史を鑑みる、公明党の「平和の党」が意味するものは、社会党左派や共産党のような左翼的な強いイデオロギーに基づいたものではない事がわかります。
それは、国際情勢や政局判断によって変わる、非常に現実主義的なものなのです。これは、自民党ハト派に非常に近かった。だから両党は連立できたのです(ただし森喜朗首相の就任以降、今日の安倍首相まで自民党の総理はタカ派です)。

公明党は平和の党ではなくなった」と語る学会員の方がいらっしゃいます。しかし、その多くは公明党の変化を指摘するものではなく、「創価学会の平和思想に反する」というものではないでしょうか。学会思想の内実はどうあれ、この場合の「創価学会の平和思想」とは、「戦争絶対反対」「軍・戦力不保持」「9条遵守」といった左派的な言説として解釈されています。

しかしそのような強いイデオロギーは、公明党にはもともと薄かったというのが私の考えです。
公明党は、是々非々でその外交・安全保障政策を変更してきた。そのような歴史の延長として昨年の安保関連法の成立を見るとき、1つの「連続性」を見る事ができるのではないでしょうか。

公明党は「反権力」か

続いて考えたいのは、「公明党は権力の魔性に取り憑かれてしまった」というものです。
これも安保関連法の成立をめぐり、創価学会の中で聞かれるようになった主張です。その意味するところは、「反権力の精神を忘れ、政権の座に居座り続ける事が自己目的化している」というものでしょう。

しかし公明党が「反権力・反政権」であるかというと、疑問符がつきます。公明党はその歴史において、ずっと政権入りに固執してきたからです。

上述の通り、公明党は1973年に「自衛隊違憲」「日米安保条約即時撤回」といったかなり左寄りの主張をしました。これは、社会党などの野党と連携し、政権入りを模索していたからです。
しかしその試みは成功せず、今度は自民党との協力を目指します。1992年には当時自民党幹事長だった小沢一郎公明党市川雄一書記長が急接近し、蜜月関係を築きます。
その後自民党を割って出た小沢とともに、細川政権を組閣。果てには分党して新進党に合流しましたが、これらの取り組みは失敗に終わりました。
これらの変遷の果てにできたのが自公政権なのです。

このように公明党は、ずっと政権入りを目指してきた政党であり、権力を弾劾し続ける「反権力」的な野党ではありません(結党当時はこの色彩が強かったとは思います)。
政権奪取のために、その政策を右から左に柔軟に変え、「自民」とも「反自民」とも巧みに連携してきたのです。

さらに森喜朗小泉純一郎安倍晋三といったタカ派のリーダーとも、公明党は付き合ってきました。
妥協に妥協を重ねながら、今日まで自公の協力は継続しているのです。

安保関連法成立の際に、公明党が連立を離脱するのではないかと予想されました。
しかし成立の約1年半前にあたる2014年1月の時点において、山口公明党代表は「政策の違いで連立離脱はありえない」と明言しています。
民主党政権下であっという間に離脱をした社民党などとは異なり、公明党の与党へのこだわりは強いと考えられます。

なぜ公明党はかくも変遷するのか?

これまで、公明党が外交・安全保障分野においてその政策を大きく変えてきたことと、政権与党への志向が強いことを述べてきました。

それは、公明党が強い政治的イデオロギーを有しておらず、むしろ国民生活や福祉などの個別具体的な政策を実現する政党だからでしょう。
これは、独自の愛国観に基づいた改憲を党是とする自民党や、左翼的なイデオロギーを重視する共産党やかつての社会党と大きく異なります。
自衛隊」「憲法」「日米安保」「集団的自衛権」などの論点において、独自のイデオロギーに基づいて一貫した主張をするのではなく、その時の情勢や政局によって態度・主張を是々非々で変えていく。
安全保障・外交・国際貢献といった大きな国家観よりも、現場感覚に基づいた課題解決・政策実行に重きを置いていく。
このような政党が、政策の実現率において大きく勝る政権与党の立場にこだわるのは、合理的だと思います。

公明党の「変質」がこれまで批判されてきました。しかしその歴史を見るとき、安保関連法の成立もその延長線上に位置する出来事として、見ることが出来るのではないかと思います。

なぜ創価学会からの批判がやまないのか

最後に考えたいポイントは、特に支持母体である創価学会から、「平和の党ではなくなった」「自民党に媚びすぎている」といった批判が出てしまう理由です。

これは、学会員が創価学会のセルフイメージ(自画像・自己認識)を、公明党に投影しているからだと考えられます。

創価学会のセルフイメージは、初代・二代・三代会長の人生、主張によって構築されています。
即ちそれは、治安維持法不敬罪で投獄され獄死した牧口会長。同じく投獄され、出獄後「地球民族主義」を提唱した戸田会長。そして、世界市民思想を唱えながら民間外交を推進し、平和活動を行ってきた池田会長。
この御三方に象徴されるような、「反体制・反権力」「戦争反対・平和推進」が創価学会のセルフイメージ・アイデンティティ構築に不可欠な要素です。

公明党議員は、基本的に全員が創価学会員です。
つまり学会員にとって彼らは、同じ信念を共有する「同志」である。
その「同志」に自らのセルフイメージを重ね合わせ、「反権力」「平和の党」であることを期待するのはごく自然でしょう。
しかし、公明党の実態はそのような強い主張を持つものではなく、現実主義的な政策実行を重視するインテリ集団であると思います。

池田会長の思想を背景に、公明党を批判する学会員が話題になりました。
三宅洋平が主催した選挙フェスには、現役創価大学生が参加・主張し、注目を集めたようです。
もちろんそのような主張は自由ですし、最大限に保障されるべきです。

しかし私は、多少の危惧を感じています。
厳しい言い方になりますが、公明党を批判する現役創価大学生の主張は、旧態依然の左翼となんら変わりない。そこに「池田先生」「創価学会」といった固有名詞が加わっているだけです。
政治の場に池田会長の言葉が持ち出され、それが金科玉条のように崇め奉られてイデオロギー化し、現実的な政治判断に悪影響を及ぼすのではないか。その事が心配でなりません。

今後憲法の議論が始まるでしょう。早晩9条についても向き合わなければならない日が来るはずです。
創価学会員として、一公明党支持者として、現実的な状況と創価学会の平和思想、そのどちらも重視しながら、賢い判断をしていきたいものです。

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僕は電車に飛び込みそうになった:池田先生ご出所の日に

創価学会 創価学園 創価大学 池田名誉会長 回想録

(本稿はメンヘラ気味の管理人による、叙情的なポエムです。胸糞注意のため、ここでブラウザの「戻る」をクリックすることをご検討ください)


僕は、駅のプラットフォームで電車を待っていた。

また、今日が始まる。
身体は重く、まるで心臓を悪魔に掴まれているような心地がする。

轟音と共に電車がこちらに向かってくる。

飛び込みたいー
無意識に黄線から一歩を踏み出した僕は、慌てて身体を引いた。

間一髪。
「黄色い線の内側にお入りください」
そのアナウンスとともに、電車のドアが開いた。


何年か前に僕は、ある上司とマンツーマンで、1つのプロジェクトを担当することになった。
その上司は、社内でも有名な仕事の鬼。その能力が高いことは誰もが認めるところであったが、部下に対する厳しさは異常であり、何人もの退職者を出していることで有名だった。

その人事を聞いた時に、僕は恐怖を感じた。
しかし当時仕事の調子の良かった僕は、「これは成長のチャンスだ」と前向きに捉える事ができた。

かくして新しい環境下での挑戦が始まったが、その上司は評判通りの人物だった。
成果への要求が高いのは勿論の事、独自のルールを持っており、それが異常に細かい。
些細なミスをしただけで、他の社員が皆振り向くような大声で叱られる。公開処刑を受けているような気分になった。
会議室に呼び出され、僕の対応の悪さを数時間にわたりひたすら責められ続けたこともあった。

「今日私に話しかけてはいけない」
そんなルールを課される日もあり、隣席に座っている上司に、わざわざメールでお伺いを立てなければならなかった。

業務量が増大した結果労働時間も長くなっていき、いわゆる「過労死」ラインはとっくに超えていた。

ボロボロになりながら何とか仕事に食らいついている日々。
しかし、無意識に電車に飛び込もうとした自分を発見した時、強い危機感を覚えた。

結局その日は会社を休むことにした。

ベッドで横になったが、全く落ち着かない。
僕は御本尊様の前に座り、お題目を唱えることにした。

「辞めたい」「逃げたい」
僕は、率直な思いを御本尊様にぶつけていった。

選択肢は色々あった。
転職をすること。異動願いを出すこと。何も考えず、自己防衛のために辞職すること。
祈れば祈るほどわからなくなっていった。

ふとカレンダーを見ると、その日は6月17日だった。

「7月17日までは頑張ろう」
咄嗟に答えが決まった。

7月17日。
この日は、29歳の池田先生が選挙違反の疑いで逮捕され、14日間大阪拘置所を勾留されたのち、釈放された日である。酷暑の大阪での獄中生活は、想像を絶するものだったと思う。それでも先生は、検察との頭脳戦の末、無罪を勝ち取っていた。

僕にとっての7月17日。
それは、創価学園・大学時代に、池田先生との思い出を刻んだかけがえなのない日だった。
その日から僕の挑戦が始まった。

朝4時に起き、2時間のお題目をあげてから出勤した。
どんなに遅くなっても、帰宅後の1時間の唱題を自らに課した。
休日も10時間唱題に挑戦した。

状況がすぐに好転するはずはなかった。
大恥をかき、自分を傷つけるために会社に向かう日々。
プライドを全て捨て去らなければ、とても生きていけなかった。

どうしても辛くなった日の帰りの電車の中で、『人間革命』の「大阪」の章を広げた。
池田先生が手錠をかけられたまま拘置所の外に連れ出され、見世物のように人々の視線にさらされる場面があった。
もう少し、もう少し頑張ろうと心に決めた。創価学園卒業式でお会いした先生の姿が思い浮かび、涙が出そうになった。

仕事の状況に変化が現れ始めていた。
上司に提出する資料に、ほとんど文句を言われなくなっていた。
しかし僕は疲弊しきっており、喜ぶ余裕もなかった。
ただただ毎日がむしゃらに生きていた。

7月17日を迎えた日の朝。
僕は上司に会議室に呼ばれた。

また陰湿な攻撃を受けるものと身構えたが、上司の口から発せられた言葉は、予想外のものだった。

「最近ずいぶん成長したな。とても助かっている」

それだけ言うと、上司は会議室を後にした。
身体の震えをおさえる事ができなかった。

僕は無事、そのプロジェクトを終える事ができた。
その上司とは違う仕事を担当することになったので、「ありがとうございました」と感謝の言葉を述べた。

次に担当したプロジェクトで、自分の大きな変化に気づいた。
顧客からの高い要求にも応えられるようになっていた。
仕事の処理スピードも上がり、多くの案件をこなせるようになっていた。

全てはあの上司の下で鍛えられた結果だった。


今年も7月17日を迎えた。
相変わらず僕は弱い人間だ。自分の臆病さと傲慢さに嫌気がさす事も多い。
それでも、池田先生の信心に学びながら、必死にお題目をあげること。
僕にとっての7月17日は、その生き方を確認する日である。

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造反した創価学会職員3名の救いようのない「病い」:創価同窓の後輩としての苦言

創価学園 創価学会 創価大学 池田名誉会長 学会本部職員

創価学会職員3名によるブログが話題になっている。

元創価学会職員3名のブログ

この3名の内2名は、創価学園創価大学を卒業後、学会本部に就職した経歴を持ち、僕の同窓の先輩でもある。
絵に描いたような「創価エリート」の彼らだが、2012年に学会本部を懲戒解雇された。

ブログによれば、彼らが創価学会を解雇・除名されるに至ったのは、当時の所属組織の幹部の成果主義的な活動の進め方や(いわゆる折伏・選挙の数)、閉鎖的な組織運営に疑問を持ち、「積極的に建設的な意見を伝える」ようになったという。その結果、地方転勤などの理不尽な人事を受け、果てには懲戒解雇に至った。
その過程において、原田会長や長谷川理事長などの最高幹部に不正人事を直訴したり、池田名誉会長に組織の腐敗を訴える手紙を届けようと試みたらしい。

その後この3名は、集会やサイレントアピール(「現執行部は退陣を!」「戦争法案反対!」などと書かれたプラカードを持って学会本部の前に立ち続ける)を通じて、「腐敗した学会本部を外部から変える」ことを試みている。また、ブログでは様々な学会本部の内情を暴露しており、メディアの取材にも「来るもの拒まず」で積極的に応じているようである。管見の限りでも、朝日新聞週刊ダイヤモンド日刊ゲンダイ週刊金曜日にて取り上げられている。

「学会本部を外部から変える」などという無理難題に自らの人生を捧げるというのだから、その熱意には大層感心するが、彼らを見ていると何とも言えない居心地の悪さを感じてしまう。

それは彼らの中に、創価学園創価大学生特有の「病い」を見てしまうからだろう(1名は創価教育を受けていないが)。
といっても、創価学園・大学の教育を全否定する気は毛頭なく、人格的に優れた人物を多く輩出しているし、その多くは常識的であり社会的に成功を収めている。
だが、卒業生によく見られる除きがたい欠点が存在し、それをこの諸先輩方は嫌という程体現している。

先輩を非難するのは憚られるが、同窓の後輩として、その「病い」におかされた行動に苦言を呈したいと思う。

第一の「病い」:「悪の糾弾」に固執する短絡性

まず第一に、矛盾や不正に直面した際に、「悪を糾弾する」といったアプローチしかとることのできない短絡性である。

我々は社会において生きている限り、様々な矛盾や不正と出会う。自らの倫理観に反する仕事をしなければならないこともあれば、人格的に破綻した人間と協働せざるをえないこともある。圧迫された弱者に出会うことなど、日常茶飯事である。

そういった現実を甘受せず、理想を保ち続ける人間は立派であるが、現実から遊離して自らが「諸悪の根源」と認識したものを攻撃することだけに労力を費やすのは、全く幼稚と言わざるを得ない。

声を上げるという判断が正しい事もあるだろう。しかしそんな事ばかりしていても、組織から排除されるだけであり、組織の改善には何の役にも立たない。

どうにもならない現実を受け止めながら、課題を認識して対策を立て、漸次的に改善していく。
大体の場合において、そういったアプローチをとるのが妥当であろう。

しかし我が同窓の先輩方は、組織内で「勇敢に声を上げる」以外の方途を見つけることができなかったようである。挙げ句の果てには、「池田先生に直訴する」という伝家の宝刀に頼ろうとしたようだが、叶わなかった。

そして現在も、ブログにおける内部告発やサイレントアピール、集会といった「言論活動」を精力的に行っており、全く成長していない。

しかも最近の彼らの活動は、安保法案を成立させた公明党の批判と、それを是認した創価学会執行部の退陣要求に、多くの時間を割いているようである。また、様々な学会本部の内情を暴露しているが、彼らが懲戒免職に至った過程と全く無関係な情報も多い。

つまるところ何をしたいのか、彼らが目指すものは何なのか、全くわからない。
彼らのような「破邪顕正」的な思考回路しか持たない人間は、現実的な目標やそれに至るまでの道程を示す能力が皆無なので、迷走するしかない。
要するに彼らは、信仰者としてではなく、一社会人として未熟なのである。

第二の「病い」:自らの正義を微塵も疑わない独善性

第二の「病い」は、自らの絶対的正義と相手の絶対悪を信じてやまない独善性である。

彼らのブログを読んでいると、その自己陶酔的な語調に強い吐き気がする。

引用するに堪えない文章ばかりだが、7月12日に更新されたばかりのブログから一部を紹介しよう。どうやら御三方は7月3日に、彼らを支持する一部会員とともに、「戦争法案を推進する公明党は支援しない!」「安保法案反対の会員を処分するな!」などと書いたプラカードを使ったサイレントアピールを敢行したようである(もはや「安保法案反対」「公明党批判」の団体になっている)。

誰もが創価が嫌いで声を上げているのではない。師の仰せを守りたいと血の涙を流しながら、懸命に声を上げ続けているのである。

しかし、権力の魔性に取り憑かれた学会本部は、そうした人間の声が聞こえなくなっているのである。

もはや彼らが罹患している病気は中二病ではないのかと思いたくなるようなポエムだが、この文章に、彼らの世界観が象徴的に表現されていると思う。

即ちそれは、
●自分=本当はそんな事をしたくないが、正義の為にやらざるを得ない極めて倫理的な存在
●相手=「権力の魔性」に取り憑かれ、師匠・池田先生に違背した絶対悪の学会本部・公明党
である。

このような非常に単純な善悪二元論的に物事を把握し、自らに正義がある事を微塵も疑わず、相手に絶対悪とレッテル貼りをして認識する努力を怠るその姿勢は、彼らが非難する日本共産党顔負けである。

このような独善的な人間が生まれてしまうのは、これは全く不幸なことであるが、彼らが「議論」をする機会に恵まれなかったことに一因があるだろう。

「議論」とは「折伏」と大きく異なる。
折伏」とは、自らが正しいと信ずるものを相手にも信じさせようとする試みである。つまり、その「折伏」というコミュニケーションにおいては、絶対的真理は折伏をする側の人間にあり、その人間は自らを反省する契機を持たない。ただ、自らの信念を相手に移植しようと試みるだけである。
それに対し「議論」とは、それに参加する人間は皆、完全な真理を有していない。むしろ、自らの不完全な意見・信念を他者の批判に晒すことにより、自らの意見の未熟さを認識してそれを改め、真理に近づこうとする試みである。
どうやら元本部職員の御三方は、「折伏」という思考回路しか持っていないのだろう(これは決して「折伏」という布教活動を否定するものではない。それしかできないのが問題なのである)

恐らく彼らは、これまでの宗教生活を通じて、「池田名誉会長・創価学会=絶対正義・無謬」という信念を確固たるものとしてきたのだろう。また同時に、「池田名誉会長・創価学会の指導を実践する自分=絶対正義・無謬」という自画像を形成してきたのだろう。
しかしそれは「池田名誉会長の指導に違背する学会本部=絶対悪」「池田名誉会長の指導を忠実に実践する自分=絶対正義」という等式に容易に転化してしまう。

そのような思考回路を持った人間は、簡単に「聖戦」というテロリズムに突入してしまう。

全く、彼らの「病い」は重いのである。

3名の行動に感じる新時代の到来

色々と手厳しく書いてしまった。今日ほど感情的に筆を走らせたことは珍しい。
これは彼らが私と似た経歴を持つことによる、同族憎悪なのかもしれない。

この元本部職員3名については様々な場所で言及されていたが、面白かったのは下記のブログの記事である。

sokadamedasi.blog27.fc2.com

これは、「ブログ村」の創価学会カテゴリ第1位(7月15日19時時点)のブログであり、「創価学会員による創価ダメ出しブログ」という名前からわかる通り、学会に批判的な方(いわゆる「内部アンチ」)によるものである。
この記事では本部職員の3名が全国の学会員から参加を募り、座談会を開催したことに言及しているが、それへの批判は手厳しい。
多くの会員を巻き込むことにより、その参加者が除名されるおそれがある事を指摘し、3名の行動の「軽率さ」を非難している。また彼らが目指すものが不透明である事を批判しながら、結局は私怨を晴らし、自分の名誉欲を満たすためにしているのではないかと述べている。

全く常識的な批判である。
この方と僕は宗教的な信念・主張は全く異なっているが、この元本部職員3名と同じ思考回路を持った学会幹部より、よっぽど好感が持てる。
このような常識的な方の下で学会活動をしたいとつくづく思う(事情はよくわからないが、組織を追放されたようである)。

ちなみに、彼らは以前主催した座談会において、今回の選挙で話題になった小林節氏を招いて講演してもらっている。「今の公明党池田博士の思想に反している」という同氏の発言を受け、狂喜乱舞した3名の姿が思い浮かぶ。
この座談会は8月20日にも開催されるようであり、安保法案成立の過程においてスターになった憲法学者・木村草太氏が来るようだ。しかし木村氏の性格を考えると、小林節氏のようなリップサービスはせずに、憲法解説を粛々と行うことが予想される。また、これまで木村氏は公明党の果たした役割を評価する発言も重ねてきたので、この座談会でも自らの学問的良心に基づいた主張をして欲しいものである。
とはいえ本部職員の3名は、たとえ木村氏が公明党評価の発言をしても、自分たちの都合のいいように記事にすることは間違いないが。

ともあれ、彼らの造反劇に、新しい時代の到来を感じざるを得ない。
このような事態は、池田名誉会長が学会の中で存在感があった時にはあり得なかっただろう。
以前であれば彼らのように幹部糾弾をして徒党を組めば、池田名誉会長によって非難され、「池田名誉会長のご指導=自分たちの実践」という等式が音を立てて崩れ去ったはずだからである。
その「最後の砦」が崩れた後は、自らの意見を捨てて反省するしかない。もしくは、「池田名誉会長=絶対正義・無謬」という等式を捨て去り、日蓮や戸田会長、もしくは社会的規範を持ち出して、「日蓮仏法・戸田会長・社会的規範に反する池田名誉会長=絶対悪」「日蓮仏法・戸田会長の指導・社会的正義を忠実に実践する自分たち=絶対正義」という立場に立たざるをえないのである。
これまでに造反した学会本部や公明党議員は、そのほとんどが「池田名誉会長への造反」という形をとった(原島嵩氏や藤原行正氏、龍年光氏など)。

しかし今後は、池田思想の正統な実践者を自負する人物が大勢出ることだろう。彼ら3名の池田名誉会長の言葉を振りかざしての造反は、そのような時代の到来を予感させる。
また、1人の偉大なカリスマが圧倒的な支配力を持っていた組織は、そのカリスマを失うと分裂をしてしまう事は、歴史が教えるところである。

僕は一会員として、学会の分裂は決して望まない。
であるから学会本部職員の方々は、派閥が出来てしまうのは仕方ないにしても、組織の維持を重要視するという穏健な態度と、自らの誤りを認めて改める謙虚な姿勢を持ち、余程のことがない限り、組織を割るような真似はしてほしくないと思う。
動揺して迷惑を被るのは、現場の学会員であるから。

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正一さまのご質問への回答

質問への回答

(本記事は、下記記事において正一さまよりいただいたご質問への回答です。あまりに長文になってしまったので、記事投稿という形でコメントさせていただきます)

 

創価学会広報部に拍手したい:池上彰の選挙特番について - 学会3世の憂うつ

 はじめまして
つかぬことをお伺いしますが
池田先生は投票に行かれたことはあるのですか?

 

コメント頂き、誠にありがとうございます。
ご質問いただいた事項への私の推論(あくまで推論)を述べてさせていただきます。

残念ながら私は一末端会員に過ぎませんので、そのような事実は知る由もありません。
また、池田名誉会長が投票に行ったというエピソードを学会内で聞いた事もなければ、そのような文献を読んだ事もありません。
名誉会長の若き日の日記を編集して発刊した『若き日の日記』を見れば、そのような記述が見つかるかもしれませんが、現在絶版となっており手元になく参照できません。

大変恐れ入りますが、以下は私の知っている情報を基にした推論です。
投票等については全く無知なもので、ネット検索をした付け焼き刃の知識に基づいています。もし私の誤解等があり、どなたかからご指摘いただいた場合は、ただちに修正、加筆させていただきます。

名誉会長が投票に行った事があるかどうかですが、無名の一青年が巨大教団のトップになって現在に至るまで、名誉会長を巡る状況は大きく変わっておりますので、幾つかの年代にわけて考えたいと思います。

創価学会の政界進出前(〜1955年)
創価学会が初めて政界に進出したのは、1955年の統一地方選挙です。
問題は、学会の政界進出前から、池田名誉会長に政治的関心があったかどうかだと思います。

これは、投票に行っていたと考えるのが合理的であると思います。
後に公明党の創立者になる人物が、20代の頃政治に全く無関心だったとは考えづらいです。
また池田名誉会長は、共産党宮本顕治委員長の対談において、「創価学会の入会前に宮本氏の演説を聞きに行った」というエピソードを話していおります。これは20歳ごろの話かと思われますが、当時から政治に一定の関心があった事を示しているかと思います。

さらに戦後の衆議院選挙の投票率を見ると、1955年まで70%程度の人が投票に行っていた事がわかります。つまり今日と異なり、投票に行かなかった人の方が少数なのです。
このような社会状況も鑑みると、名誉会長が投票に行かれていたのは、ごく自然かと思います。

創価学会政界進出後〜会長就任(〜1960年)
創価学会の政界進出後ですが、統一地方選参院選に学会員が出馬しています。
池田名誉会長の住まわれていた区から、学会候補が出馬していたかどうかはわかりませんでした。
しかし大阪の参院選の責任者を務めるなど、政治にかなりのコミットメントをしていながら、自分は投票しないという事は、説明が難しいかと思います。よって、この時期も投票に行かれていたかと思います。

③会長就任後〜1965年頃
問題は、創価学会の第3代会長就任後です。
100万単位の会員を抱える巨大会員の会長になったのですから、当然その行動に制約がつくだろうと思います。今日、池田名誉会長が市役所のような投票所に現れるとは考えづらいのです。

しかし1965年頃までは、普通に投票所にて投票をされていたのではないかというのが僕の推論です。
といいますのも、公明党書記長だった矢野絢也氏が、その著作の中で「言論問題前の昭和40年頃、会合の帰りに池田氏と何人かの幹部とフラッと映画館に立ち寄った」というエピソードを披露していたからです。今日では考えられませんが、1970年頃まで、池田名誉会長の行動は比較的自由だったのではないかと思われます。
映画館に普通に立ち寄れるならば、投票所に行き投票する事もありえるかと思います。

④1970年以降
しかし、これ以降について推論するには、私には情報がなさ過ぎます。
ただ、今日のお立場を考慮するならば、投票所に行って投票するという行動をする事は、考えづらいかと思います(私も一会員として、そのような危険をおかしていただきたくないと考えます)。
また、1968年に池田名誉会長が「日中国交正常化」提言をされた後、街宣車信濃町の学会本部に押しかけたり、怪しい人物が徘徊するなどがあったようです。
90年頃には、オウム真理教が池田名誉会長に危害を加えようとした事もありました。

このような点を考慮すると、投票所のような場所に行かれるのはあまりにリスキーであり、また会場に行くだけでかなりの事前準備が必要となり、投票所への影響も大きいかと思います。

そこで考えられるのが、「在宅投票(郵便等投票)」ですが、1951年にこれを悪用しての選挙違反が多発したことから廃止されたようです。1971年に復活していますが、重度の身体障害者に限るなどかなりハードルが高いようであります。この方法を用いるのもなかなか難しそうです。

とはいえ、この情報だけで推論するのは心許ないので、どうか最終判断はご容赦願えると幸いです。

お答えになりましたでしょうか? 

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A級戦犯はなぜ天皇誕生日に処刑されたのか:「生前退位」報道に際して

天皇制 太平洋戦争

天皇陛下が「生前退位」の意向を示されていることが報道された。
もし本当ならば、日本における天皇制について、生涯をかけて熟慮されてきた末のご判断だと思う。
政権にとっては、大変な難題となってしまったが、今後の行く末を注視したい。
また、天皇制ついてこれまでの人生でほとんど考えてこなかったと猛省中であるので、勉強し意見構築していきたい。

今上天皇について考える際に、おすすめの本がある。
猪瀬直樹氏の『ジミーの誕生日』である。

猪瀬氏といえば、都知事時代の政治資金問題の悪印象ばかりが持たれていることが非常に残念だが、少なくとも作家としては一流であると思う。近現代日本史を考察する際に、彼の本から教えられるところは大きい。

ジミーの誕生日の件、心配です」

この本は、猪瀬氏に送られてきた1通の手紙から始まる。
差出人は、ある貴族(子爵)の孫にあたる女性。
彼女は、子爵夫人であった祖母の戦時下から戦後にかけての日記を見つけた。その日記は、昭和23年12月7日に「ジミーの誕生日の件」に言及したまま終わっていた。
この謎が気がかりで仕方がなかった彼女は、猪瀬氏に調査を依頼したのである。

猪瀬氏は、この「ジミー」が「皇太子明仁」(今上天皇)であると考えた。
ジミーとは、連合軍に日本が占拠された後、学習院に赴任したアメリカ人英語教師が、皇太子明仁につけたニックネームである。
その英語教師の授業では、生徒は皆英語名で呼ばれていた。

この事を文献を通じて知っていた猪瀬氏は、「ジミー」が今上天皇であると仮説を立てた。
さらに猪瀬氏が、手紙の差出人に彼女の父親について尋ねたところ、学習院において皇太子明仁と同級生であったことがわかったのである。

それでは、「誕生日の件」とは一体なんなのか。

これは、「A級戦犯」絞首刑が、昭和23年の12月23日、つまり天皇誕生日に執行されることへの危惧だったのである。
子爵夫人は、GHQの中心人物の1人だったケーディスと親交があった。彼から東条英機の死刑執行が皇太子明仁の誕生日になることを告げられたと考えられる。

昭和23年12月23日0時1分30秒、東条英機ら4名の絞首刑が執行された。
まるでその日を迎えるのを待っていたかのように。

アメリカ世論の中でも、「裕仁を死刑にすべきだ」という声があったが、東京裁判では天皇戦争責任は問われなかった。昭和天皇戦争責任が問われた場合、皇太子明仁も捕らえられ、アメリカに輸送される可能性もあったが、実現しなかった。

しかしアメリカはA級戦犯をその日に死刑にすることにより、皇太子明仁に一生消えることのない「死の十字架」を背負わせたのである。

本の終盤、手紙の差出人である子爵夫人のお孫さんは、猪瀬氏にこう尋ねる。
「でも、東条が殺された日など、今では誰も覚えていませんよね」
それに対し、猪瀬氏はこう答えた。
「ただひとりを除いてはね」

このことを念頭に、今上天皇のこれまでの平和活動を見ると、実に感慨深いものがある。
日本について考察するとき、天皇制への問題を避けて通ることはできない。

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