草舟の航海 自力での到着ならず 人類渡航の謎深まる

草舟の航海 自力での到着ならず 人類渡航の謎深まる
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およそ3万年前、人類はどのように今の台湾から沖縄に渡ったのか検証しようと、国立科学博物館などのグループが当時を想像して作った「草の舟」は17日、沖縄県の与那国島を出発して、28時間後の18日昼前、目的地の西表島に到着しました。しかし、草の舟は潮に流され、全体の半分以上の区間で航海を見合わせ、伴走船に引かれることになり、研究グループの代表は「祖先の実像に迫りたいと思ったが、どうやって海を渡ったのか逆に謎が深まった」と述べました。
沖縄県の与那国島から西表島まで、およそ75キロの実験航海に挑戦したのは国立科学博物館で人類史研究グループ長を務める海部陽介さんらのグループです。

グループでは十分な道具もなかったとされる、およそ3万年前の状況を想像して長さ6メートル余りの「草の舟」を作り、2そうの舟にそれぞれ7人ずつが乗り組んで、17日午前7時ごろ、与那国島の海岸を出発しました。しかし、草の舟のスピードは計画よりやや遅い、時速2キロほどにとどまり、潮の流れが速かったことから、舟は次第に北寄りに流されたということです。

このため、17日午後3時ごろ、出発地点から北東におよそ30キロの場所で、このままでは西表島に到着できないと判断し、いったん草の舟での航海を見合わせました。その後、伴走船が草の舟を引き、こぎ手の人たちは伴走船に乗り換えて、コースを南寄りに戻すことになりました。ただ、夜になっても海上のうねりが高く、潮の流れが速い状態が続き、草の舟での航海を再開できなかったということです。

草の舟を引いた伴走船は18日午前7時前には西表島の南南西、ゴールまであと10キロの地点に進み、この地点から草の舟による航海を再開しました。そして、出発から28時間後の18日午前11時ごろ、2そうの草の舟は西表島の海岸に到着しましたが、結局、全体の半分以上の区間で航海を見合わせ、伴走船に引かれることになりました。

グループの代表を務める海部さんは「私たちは当時の有力候補として、草の舟を選んだが、潮の流れに対抗できなかった。草の舟の選択肢が全くなくなったとは思っていないが、今の私たちのプランではうまくいかないことが分かった」と述べ、今回作った草の舟で島から島に渡ることは難しいという考えを示しました。

そのうえで、「祖先の実像に迫りたいと思ったが、逆に謎が深まった。いったいどうやって海を渡ってきたんだろうと、頭の中で渦巻いている。明確なヒントは得られていないが、彼らは間違いなく島に来ているので今後、さらに考えていきたい」と述べ、謎の解明に向けてさらに研究を続けたいという意欲を示しました。

こぎ手「潮流どう乗り越えたのか」

こぎ手の1人で、神奈川県葉山町の内田沙希さん(26)は「海に出たあと、波はさほど高くなかったが、潮の流れが速く、一瞬で流されてしまい、草の舟の針路を修正できませんでした。3万年前の人たちはあの潮流がある中で、どう乗り越えたのか、不思議です」と話していました。

また、西表島から参加した赤塚義之さん(37)は「草の舟は安定感がある一方、オールをこぐのが重く、特性が分かったのは学びで、最初の一歩としてはよかったのではないか。草の舟は1度水につけると何度も使えなくなるため、祖先たちはどう使ったのか謎はむしろ深まった」と話していました。

同じく、西表島から参加した小渕貴康さん(45)は「海は思うようにならず、先人の偉大さを感じました。祖先もトライアンドエラーの繰り返しだっただろうと考えると、1回目でうまくいくはずがないと感じました。草の舟の可能性はゼロではないと思うが、海を渡る強い思いがないと行けないと感じました」と話していました。

与那国島から参加した村松稔さん(39)は「僕たちの考えは、まだまだ甘かった。与那国島を離れていくと、どんどん北に流されていることに気付き、舟よりも潮が速くて進路を修正できなかった。3万年前の祖先たちは、きっと自然に対する知識が豊富で、海や風、波や気温のことなど、僕たちが失った能力を持ち合わせていたと実感した航海だった」と話していました。