アシスタントがエンジンを突然入れた。前方に目をやると駐車禁止を取り締まってる男たちが2人見えた。
「この辺り、とりあえず一周しますね」車は、左にカーブして大通りにでた。幸運なことに車量はまだまばらだった。関口が腕時計を見た。ボクも時間を確認する。タイムリミットまであと40分を切っていた。
ワゴン車は大きく中目黒を一周して、また駅の脇の立ち食いそば屋の前に向かっていた。関口はずっと佐内とスーの話をしている。
ボクはそれを聞きながら、あの頃の今よりもっと不確定で不安定だった心情を思い出して、心臓がすこし硬くなった気がした。
「朝だよ」スーはとても優しい笑顔だった。
仕事に出て行こうと身支度をするボクに、裸のままうつ伏せに寝ていた彼女がポツリと言った。
「手紙?」ボクは玄関で、ニューバランスのスニーカーを履きながら振り向いた。
「うん、わたしも返すから、手紙」
「いいけど、なんで?」ボクはドアを開ける直前に彼女に問いかけた。
「字がほしいの。あなたの書いた字。わたし、きっとずっと持ってるよ」
「ん? そんなんいくらでも書いてあげるよ」
「うん、でもほしいの。早めに」
「ん? んー、わかった。今日、会社から手紙出すわ。なんだこれ」ボクはちょっと笑ってしまったけど、彼女はこちらを向いてもくれなかった。
「きれいな字で書いてね」
それが彼女との最後の会話になった。
その日の12時ちょうどに佐内の自宅他に家宅捜査が入る。
クラブ『REQUIEM』はもちろん、何人もいた愛人宅にも多くの捜査員、マスコミが押し寄せた。スーの五反田のマンションも何日も前から張られてたらしく、あっという間に人だかりができていた。
ボクはそれをテレビ局のスタッフルームで知る。
佐内の自宅に、無表情の大人が列をなして入っていく映像だった。クラブ『REQUIEM』のVIPルームが映し出されていた。ボクたちがいた部屋の全面ガラスの壁をレポーターが開いて、奥にもう一部屋あるというどうでもいい事実を神妙な顔で伝える映像だった。
局のお偉いさんが集まって、その報道を見ながら「俺だったら自殺するね。もう一生分楽しんだでしょ」なんて雑談をしていた。
佐内の愛人たちの何人かは佐内からの性的暴力を週刊誌で暴露し始める。
六本木のVIPルームで佐内にキツイ質問をされ、笑顔で即答していた女が被害者の代表として連日泣きながらテレビのワイドショーに出て、引っ張りだこになっているのには失笑してしまった。
mixiをひらいてみたら一度だけ、スーからの足跡がついていた。でもそれっきりだった。彼女のmixiのページだけは今でも健在だけれど。
一度だけ、もぬけの殻になったスーのマンションを訪ねたことがある。それは一斉家宅捜査の数日後だった。あれほどいた報道陣の群れもほとんど姿を消していた。ボクはマンション横の駐車場のフェンスにもたれかかって、彼女の部屋をしばらく見上げていた。外の下品なネオンの灯りが彼女のカーテンのない部屋にさし込んでいるのが確認できた。
最初に出会った夜、VIPルームの天井にレーザー光線が反転して映ったあの光景を、他の人間は誰も気に留めていなかった。ボクは天井に映る光の一瞬をあの部屋にいる間中ずっと眺めていた。あの部屋で唯一美しい光景だと思ったからだ。
彼女は上ばかり見ていたボクに誘われるように、あの部屋で初めてマジマジと天井を見たと五反田のマンションで、風俗街のネオン管がウネウネと反射する天井を見ながら教えてくれた。
美しい光は次々と形を変え、強さを変え、色を変えて消えていく。決して手にすることはできない儚さを、ボクはスーにも感じていた。
それはボクが思う、東京という街の感覚とも一致していた。
現在、クラブ『REQUIEM』の跡地には、立派なオフィスビルが2棟建っている。五反田のマンションは取り壊されて、10階建てのオフィスビルが建った。隣の駐車場もビルに変わり、街もどんどん姿を変えていった。
仕事の関係でたまに五反田を通る。その時にスーと寄ったコンビニに入ったりする。あのコンビニ以外、彼女との思い出の場所はもう東京には一つもなかったから。
世間はその後も、ドジを踏んだ芸能人や政治家、嘘をついた企業、ズルがバレた著名人を吊るし上げて、問題は散らかしたまま、また次のターゲットに移るということを繰り返している。
その生け贄が日々変わっていく中で、佐内の疑惑もスーもあの女たちもいつしかみんな忘れていった。
アシスタントがFMラジオのボリュームを少しだけ上げる。サザンオールスターズの『私はピアノ』という曲が流れはじめた。原由子のやさしい声がワゴン車を包んだ。
「消えた5億円、あれ本当にスーかな?」関口がスマホをいじりながらボクに尋ねてきた。
「5億?」ボクはビックリしてみせた。
「知らない? 週刊誌に載った佐内事務所の金庫から消えた5億の謎」関口は楽しそうにグーグルで「佐内 5億 愛人」で検索してヒットしたページをボクに見せてくれた。
「あー、俺はあのまま、スーと付き合って高飛びすればよかったわあ」そういうと関口は、ケラケラ笑った。
「あ…」関口は突然何か思い出したように笑うのをやめた。
「ん?」
「あの時、おまえ宛てにきてたファックスなんだったの?」
「ん?」初耳だった。
「あれだよ、あの気持ち悪いやつ」
「どんな?」胸騒ぎがした。
「多分、佐内がらみだと思うんだけどさ。真田が処分しちゃったのかなぁ」
「どんなだよ?」
「大きくカタカナで3文字書かれただけの差出人不明のFAXだよ」
「3文字?」
「そうそう、大きくカタカナで3文字だけ。気色悪くない?」
「なんて書いてあった?」ボクの両手が少し汗ばんだ。
「あ な た」
「ん? なんて?」
「いやだから、『あなた』ってだけ。カタカナで」
「ア ナ タ」ボクは声に出してゆっくりと言ってみた。
「ア…ナ…タ…」
ボクはスマホに「日本初の南極観測隊 3文字 アナタ」と打ち込んだ。
1957年、日本初の南極観測隊が南極に近づいていた。当時、電報は高級なもので長くは打ち込めなかった。そこで南極に向かう夫に向かって、その妻はたった3文字の電報に愛のすべてを託した。
「ア ナ タ」と。
あの夜の彼女が伝えたかった言葉を、ボクはグーグル経由で受け取った。
ストリップ劇場のあの鏡台を見ながら固まって動けなかったボクが、スマホの画面に反射して写った。
もう彼女には二度と会えない。本当はとっくに分かっていた現実を、初めてボクは飲み込んだ。同時に、きっと彼女は誰にも支配されない場所に辿り着いたんだ。そう心から思いたかった。
「あのさ、スーって本名はなんていうの?」
「スー」
「だから、本名」
「スーだって」
「そんな人間いるかよ」
「ここにいるわよ」
たしかにあの時、彼女はそこにいた。
窓を開けていたせいで、下品な街の下品な下水道のニオイがこのワゴン車の中にまで漂ってきていた。
関口が隣で、スーのことを考えているのがわかった。ボクもスーのことを考えていたからだ。スーもまたこの瞬間、どこかでボクらのことを考えてくれているような気がしていた。止んでいた雨が、またポツポツとふりはじめてきた。
東京は嫌いだ。下品だからだ。
そしてボクは東京に22年間住んでいる。それはボクが下品だからだ。
東京が大好きだ。それは下品だからだ。
写真:安藤きをく モデル:瀬戸かほ デザイン:熊谷菜生