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ポジ熊の人生記

好きなことを、見てもらえる情報にして発信する、そんなブログを目指しています。

いつか孤独を共有できる人に逢えたらいいなって思うのです

心-私信

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しばらく、1人でいる。仕事では他人と関わるし、友人だっている。このサイトを見に来てくれる人もいて、本当の意味で孤独なわけじゃない。だけど、基本的には1人でいることが多い。

家族や同棲中の彼女がいるのなら

自分1人でいる時間というのは、おのずと限られてくる。 旦那さんや奥さんが家にいる人ならば、職場と家の移動中しか1人になれない環境の人も少なくない。こういう人たちは、それら他人といる間は自省というのが難しいのではなかろうか。気も遣うのであろうが、とりあえず寂しさは感じにくいだろう。一緒にご飯を食べたり、TVを観たり、会話したり。自分と会話するよりも、誰かと会話している割合が大きいから、寂しさなんてのは片隅に追いやられるものではないか。

1人というものを、世間では「孤独」だとか「寂しい」といったようにネガティブに装飾しがちである。だけど、僕はこの1人でいる環境を必ずしも悪いことばかりとは思っていない。かつて、1人で過ごすことがどうしようもなく耐えきれなかった時期には、無理やりにでも誰かを誘って遊びにでかけたり、半ば不本意な娯楽にお金をかけてその寂しさを誤魔化したものだが、今では少しばかり心境が変わった。

 

1人でいると

自然と、自らを省みることになる。TVや動画など、受動的に強制的に自分に入り込んでくるコンテンツを好んで見る人でなければ、どうしても自分と真正面に向き合わざるを得ない沈黙と対峙する。これがまた結構な苦痛、というかエネルギーを要することで、普段は考えないような哲学的な分野まで考えが及んでしまい、時には宇宙まで飛んでいく。そこまで飛躍せずとも、自分の存在意義や社会との関わりなどに思いを馳せて、気がついたら空腹感に襲われるくらいに思考ルーチンを割いている。

これに耐えきれない、自分とに睨めっこが基本的に苦手だ、という人が誰かと一緒にいることを求めたりTVをつけっぱなしにするイメージがある。無思考でただひたすら居続けるほど、人はぼんやりもできないのだろう、なんとも難儀な脳を持っていること。しかし、この自分との睨めっこも、一定の境地に達すればそれは知の遊びとなる。拗らせれば妄想や幻覚に行き着いてしまうのだろうが、程よくお付き合いすれば、それは頭を活性化させる丁度いい精神活動にもなり得るのだ。元来、人間というのは脳の殆どを使い切れずにいるらしいので、自分では考えすぎるくらいが良いのだろうと半ば都合よく解釈している。

また、自分でひたすら考えてもこれ以上考えが広がらない、そんな時にはほかに情報源を求める、思考の幅を広げるための活動をする。例えばTVのニュースや新聞で時事を見たり、書物で新たな知見を得たり。自分の中ではどうしても結論というか視点が貧弱過ぎて着地点すら定められない環境に陥ると、人間と言うのは自然と自ら知を獲得すべく行動し始めるのかもしれない。

僕も長らく1人でおり、ひたすら自分と対峙した結果、新聞を毎日購読したり読書するのが日課になった。だって、これ以上自分の中で練っても、良いものが浮かんでこないのだから。もう、思考の限界値に達していると思ったのだ。「これは、新たな知識を入れなければ、前に進めないぞ」と、本能的に悟ったのかもしれない。ともあれ、誰かといなければやっぱり寂寞の感情を引き起こすことは不可避なのだけれど、でも1人でいれば自分と向き合い、壁にぶつかり、新たな知を獲得するために勉強したり読書したりするモチベーションが生まれる。このことを考えれば、1人でいることは孤独で寂しいことだけではなく、知を獲得する生活スタイルを確立できる素晴らしい環境ではないかと考えるのです。

 

依存し、傷つけあう関係ではなく高め合う関係への憧憬

誰かといると、どうしても相手に依存してしまう部分があって、自分に甘くなる。相手と僕は他人で、そこには決定的なボーダーが引かれているということを理屈で知っているからか、そこを踏み越えた関係の構築というものに、諦念感すら抱き始めている自分がいる。これは少々、寂しいことだ。僕的には、人は誰かといると幸せになれない、相手を侵食したり侵食されたりして結局は悲惨な結末を辿ることに成る、こんなペシミズムに陥る思想があって。これはおそらく今までに誰かと上手な人間関係を、同じ屋根の下で構築したことのない成功に裏打ちされた自己肯定というものを構築できてないせいなのだと思う。平たく言えば女で失敗してきた結果、男女で寄り添って生きるということに絶望しているということ。けれどね、知り合いでもお互いに認め合って支え合って生きている人を目の当たりにすると、この考え方は歪でネガティブで、真理ではないのではないかと思わされる。きっと、良い出会いに恵まれ、その時に自分が自分に嘘をつかずに善きところを目指しているのなら、誰かと支え合って素晴らしい関係を構築することも可能なんじゃないかって。そんな一抹の希望も持っているんだよ。全てを諦めたわけじゃない。

 

孤独を共有できるなら

結局、何が言いたいのかというとね、「人間は1人でいなければ知を獲得することができないわけじゃないよ」ということなのです。確かに、誰かといて相手に体重を全て預けてしまうと、寂しさを感じない代わりに自分と睨めっこしたり自省したり思考する機会は大きく失してしまうのではないかと思う。そういう意味では1人も悪いことだけじゃない。けれど、きっと誰かといても一緒に知を獲得して、支え合い高め合い、究極的には孤独すらも共有できるかもしれない。

あまり掘り下げると、僕の頭じゃ手に負えないパラドクスに陥りそうなので、このへんで切り上げておくけれど。少しでもここを見た人に言いたいことが伝わればうれしい。人間には色々な思考パターンというか特徴があって、誰かといると疲れたり消耗したりする部類の人がいる。僕もその1人なのさ。だから、こういう記事を書きあげたのかもしれない。生きやすい方向に流れた結果、1人でいるという環境を選んだ。けど、人とのかかわりについて全てを諦めきれず、いつか素敵な人に出会えるような自分でいたいという気持ちがあって、それを少しでも表したかったのです。

 

みなさんにも、理解し理解される素敵な出会いがありますよう祈ってます。

 

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