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●「旅人の論理」について(1) ここからは、岡田さんが『イイワケ』で新たに書かれたことで、気の付いた部分に私なりのコメントを添えていきたいと思います。引用は最低限にとどめますので、読者はもう一度岡田さんの文章を読み直してから、以下に進まれることをお願いします。 まずは「ハマる」ということについて。 【僕は、何かに「ハマる」事、「ハマれる」事は人生にとって、素晴らしいことだと考えている。(中略)が、ハマっぱなしなヤツもイマイチ信用できない。はまっている最中の人間は、恋愛中の人間と同じで、冷静に廻りが見れない。(中略)肝心なことは、思い切りハマッて、その後、そこから帰って来ることだ。そうすることで初めて、色々なものが見えてくる。その見えてくるものは、ハマッている最中には決して見えなかったものだし、ハマらない人にも、永久に理解できないものなのだ】 【僕は、竹熊さんとこの「ハマッて、帰ってくる」ことの大切さに関して、何度も話し合った。竹熊さんも、その時は同意してくれていたと思う】(以上『イイワケ』より) この文章を読んでいて、ふと「ハマッて、帰る」という言い方を、岡田さんと私とが果たして同じ文脈で使っていたのか、疑問に思えてきました。それというのも、私が『私とハルマゲドン』で書いた「旅人の論理」(これ自体は文化人類学者の西江雅之氏の受け売りなのですが)からは、決して(通常の意味での)「どこかに帰る」という発想は出てこないはずだからです。「旅人の論理」とは、自由な精神状態を求めるために、常に「旅人」の視点で日常生活を送ろうというひとつの考え方、ないしは態度です(具体的な旅の意味ではない)。旅人とは常に別の場所へ「おもむく」存在なのであって、どこかに「帰って」しまったら、それはもはや旅人ではなくなるわけです。 私が「ハマッて、帰る」と言ったとしたら、それはたぶん「いっさいのしがらみや、価値観から切り離した、素の自分自身に帰る」という意味で使っていたんだと思います。岡田さんの「帰る」という言葉も、この意味で使われているのでしょうか? それなら話はわかるのですが。 また僕には岡田さんが「旅人の論理」に言及された部分にも、少し引っかかるものを感じます。 【僕は、この『私とハルマゲドン』を読んで、この中に書かれている「旅人の論理」にものすごく感動した。その中に、僕はオタクの生き方、究極の美学を感じたからだ。 旅人としてその街へ行き、その街の価値観を受け入れる。受け入れるけれども、その一員になりきれず、結局は街を去る。価値観は、最終的には完全に一致せずに、また街を出ていくのは宿命なのだ。これは、オタクと作品とのかかわり合いを、見事に表現している。いや、現代社会での知の在り方、生き方指南を言い尽くしている。少なくとも僕には、そう読めた】(『イイワケ』) 完全に間違った要約というわけではないのですが、僕が考える「旅人の論理」は、ちょっと違います。揚げ足とりめいてしまって心苦しいのですが、たとえば「その一員になりきれず」とか「価値観は、最終的には完全に一致せずに、また街を出ていくのは宿命なのだ」という悲壮感あふれる解釈は、「旅人の論理」にふさわしいものとは思えません。 その一員になりきれないのも、また、価値観が完全に一致しないのも、旅人にとっては当たり前のことです。だからこそ、多少の価値観の不一致を大目に見て、それを受け入れることができるのではないでしょうか。なぜそれが可能かというと、旅人とは嫌になればすぐにその街を出ていける存在だからです。反対に、価値観の不一致が大目に見られる範疇に止まるのであれば、その街に何十年とどまったっていいわけです。 人間一人一人皆違うのですから、価値観が一致しないのは当たり前です。それを前提としたうえで、理解不能の他者とどうやってつきあっていくかというひとつの考え方が、旅人の論理と言えるのかもしれません。それは孤独な生き方かもしれませんが、その孤独を受け入れられずに「自分と同じ他人」を幻想してしまうと、それこそ「悪ハマリ」、つまり安易な依存や排除の構造に陥るのだと思います。 旅人が「街を出よう」と決意するのは、けっして岡田さんの言うように「価値観が一致しないから」ではなく、自分のいる場所で、「価値観の一致を強要する気配」が忍び寄った瞬間なのだと思います。そうなったら、そこを出ていくことに彼はなんの躊躇もいらないでしょう。普通は孤独が恐ろしくて街を出られないわけですが、旅人にとっては孤独は「本来の自分」、そもそもの前提にすぎないからです。そうして、別の街へ行くだけの話です。私と岡田さんの「旅人の論理」の解釈は、似ているようで違います。おわかりになられたでしょうか。うまく説明できていたらいいのですが。 ●「旅人の論理」について(2) 以下は参考として、かなり長くなりますが、「旅人の論理」を知らない方のために拙文から抜粋してみたいと思います。 【人間は二言目には自由を求めるが、自由ほど恐ろしいものはない。自由の代償は孤独だからだ。究極の自由状態……たとえば、南の島でロビンソン・クルーソーになることを想像すればいい。自由かもしれないが、そんな孤独におれは耐えられない。 人間が生活するためには、結局なんらかの組織に依存する仕組みになっている。完全な自由(わずらわしい人間関係からの解放)なんてものは、幻想だということだ。(略) その頃、おれは東京芸大によく遊びに行っていた。(略)そのとき偶然ながら、文化人類学者・西江雅之氏の授業を聴いたのである。(略) 「あなたたちは芸術家の卵だから、自分を取り巻いている鉄格子のような価値観から逃れて自由になりたいと思っているでしょう。(略)では、その檻を出たらどうなるのでしょうか。そこにはきっとまた別の檻があります。この檻がすなわち文化です。人間社会というのはジャングルジムのように文化という檻が無限に連鎖している。人間が人間である以上、そこから脱出することは不可能です。では、そこで自由を求めるならどうすればいいのか。唯一、人間に許された自由を享楽する方法は、そのいくつもの檻と檻の間を行き来することです。檻から脱出することは無理でも、檻から檻に移動することは可能です。つまり、旅人になるのです」 これこそは以後のおれに決定的な影響を与えた「旅人の論理」である。 つまり、旅人というのは、その土地の因習から自由である。どんな土地、どんな世界にもルールというものがあるが、その世界に生きる限り、おれたちはいやでもそこのルールを受け入れて生きなければならない。 しかし、唯一自由な存在があるとすれば、それは旅人だ。これは「旅の恥は掻き捨て」という意味ではない。つまり旅人だからこそ、その土地のルールを素直に(略)受け入れることができる。なぜなら、いやになったら、彼は別の土地に移動できることができるからだ。だから、旅人には退屈もないのである。 おれは、ここで本当の旅の話をしているのではないよ。 たとえば、西江雅之さんは実際に世界中を飛び回るプロの旅人でもある。が、あの人の異常なところは、日本で生活していてもアフリカにいるのと変わらないことだ。西江さんはデパートで化粧品のデモンストレーションなどをやっていると、一時間でも見ていて飽きないのだという。そのときの彼の目は、アフリカのなんとか族の化粧を見る目とまったく変わらないのだ。驚くべき才能ではないか。 この目があれば、家庭や、学校や、会社でも、退屈することなんてないだろう。つまり、その時のおれやあなたは、家庭や、学校や、会社に「旅をしている」わけだ。そりゃ楽しいぞ、旅なんだから。 この思想は、オウム真理教問題や、その奥に潜む「大人にならない子供」問題のひとつの解決策になるのではないかと、おれは考えている(略)。 オウム真理教は遠からず崩壊するのだろう。その時、路頭に迷った信者たちを、どのように「こちらの社会」に受け入れるべきか、いまから頭を悩ませている人たちがいる。ご苦労さんとも思うし、大きなお世話だとも思う。あっちの世界も、こっちの世界も、そこにしがみつく限り、日常という名の退屈でしかない。 ただ旅人のみが退屈からまぬがれるのだ。 だから信者は、こっちの世界に「帰る」必要なんてさらさらない。オウムの諸君は、ただこちらに「旅して」くればいいんだ。で、旅人の目でみれば、こっちの世界もまんざら捨てたものじゃないことが見えてくるかもしれない。そうなりゃ、あくまで旅人としてこの世界を「愛すれば」いい。それはそれで素敵なことではないかい。 ハルマゲドンなんかとっくの昔に起こっているんだよ。だから「帰ってくる」必要なんかない。おれたちにはもともと「帰る」場所なんてないんだから。】(『私とハルマゲドン』) 補足すれば、「旅人の論理」が真に機能するためには、「個人主義」の確立が大前提になるのだと思います。個人主義というものは、決して他者を拒絶する唯我独尊思想ではなく、むしろ他者との関係をクールな「排斥」でもホットな「依存」でもない形で、バランスよく行おうとする態度でしょう。そこに私は「オタクとしての生き方」の理想形を見いだしたいわけです。 私の見たところ、多くのオタクは「世間」に対して「我関せず」の態度を装う個人主義者のように(一見)見えるものの、その実オタク同士でも「話のわからない」連中を排斥し、「話の分かる」相手とはベタベタに「依存」しあうという関係がはびこっているように思えます。まあ、これはオタクに限りませんね。一般的に人間社会はそうなんだと思います。私だって「排斥」や「依存」とは無縁ではない。ふと気が付くと、私も無意識のうちに誰かを正当な理由もなく排斥していたり、過剰に依存していることに気が付いて、自己嫌悪に陥ることの繰り返しです。 その意味で「個人主義」の確立は、現在の竹熊にはあくまでも努力目標にすぎません。私だって孤立は怖いですからね。だからある程度の「排斥」や「依存」はやむを得ないが、せめてそれが過度になっていないか、時々チェックすることが必要なんだと思います。さもなきゃ「旅人の論理」もへったくれもないでしょう。 |