「竹熊さんへのイイワケ」に対する疑問・反論及びイイワケ
 


              竹熊健太郎

岡田斗司夫様

『竹熊さんへのイイワケ』、読ませていただきました。
 さすがはオタキング。こちらの問いかけを完全に無視された、見事なまでの名答弁ぶりですね。まあ、ある程度は予想していたのですが、こうもはぐらかされると「熱く」なっていたこちらも、さすがにバカらしくなります。
 とはいえ、一連のやりとりで、私なりの収穫はありました。主なものは次の2点です。

【1】5月27日付け『おたくウィークリー』掲載『竹熊氏その1』『竹熊氏その2』(ともに初期掲載オリジナル版・以下『竹熊1,2』と略す)における「事実誤認」の記述を、岡田氏みずから修正したこと(現在アップされているのは修正版)。

【2】『竹熊さんへのイイワケ』(以下『イイワケ』と略す)において、岡田氏は『竹熊1、2』の記述が「自分の主観である」ことをハッキリと言明されたこと。

 以下、順を追って補足説明をしていきます。

●「主観を書くこと自体」は悪いことではない

 まず【1】ですが、事情経過は、岡田氏の『竹熊1,2』を受けての拙文『岡田斗司夫氏の「情報操作」に抗議する(暫定版)』(以下『抗議文』と略す)に書いたとおりです。一応岡田氏は、こちらが最初におこなった電話による抗議を受け入れて「事実誤認」の箇所を修正されましたが、読者に読める形での謝罪なり、訂正記事なりはついに書かれなかったようです。「修正」したからには間違いをお認めになったのだと思いますが、その後アップされた修正版や今回の『イイワケ』を読んでも、まるで何事もなかったかのように「訂正しました」のテの字もないことには、正直ガッカリさせられました。
 次に【2】についてです。私が『竹熊1,2』を読んで困惑した最大の理由が、この「竹熊の発言に関する、客観性を装った岡田氏の主観的記述」でした。岡田さんは『イイワケ』の中で、「公の場で不用意に僕(岡田)の主観を書いた」ことを「お詫び」されています。これ自体は、素直にお詫びとして受け取っておきたいと思います。
 岡田さんの言うとおり、主観を主観として書くのは物書きの特権です。いや、物書きに限らず、人間、なかなか客観的になれるものではありません。およそ人間が話したり、書いたりする行為の中で主観が介在するのはやむを得ないし、むしろその主観がユニークなものであれば、それを積極的に表現することが物書きの個性であり芸であると思います。つまり「主観を書くこと自体」は決して悪いことではない。
 しかし、であるからこそ、岡田さんもお書きになっているように、特にプロの物書きには極力「誤解を生じないように」書くことが求められているわけです。ことに他人の心の中を推し量るようなデリケートな問題を扱うに際しては「以下は私の主観だが」と断りを入れることは、最低限のルールだと言えます。
 まあ、とにかくも今回岡田さんは『竹熊1,2』に対して「自分の主観である」と表明された。遅きに失した感はありますが、なるほど、他人の主観は“その限りにおいては”間違いではない。私は岡田さんではないので、「岡田氏が私のことをそう見ている」ことまでは否定できません。「『竹熊1,2』における竹熊像はあくまで岡田氏の主観による思いこみであって、竹熊は自分のことをそう考えてはいない」と私の立場から明言したうえで、これ以上『竹熊1,2』を「情報操作」と断じることはやめることにしましょう。

●互いの「主観」をぶつけ合うところから議論は始まる

 とはいえ、まだ続きがあります。
 主観をそれとわかるように書くことは最低限のルールですが、「では、主観なら何を書いてもいいのか」という問題が次にひかえているわけです。
 最初に私の意見を述べましょう。
 主観を主観として書くには、おおむね次の2つの場合があると思います。
「純粋な主観で、明確な根拠があるわけではないが、誰も傷つかないと想定できる場合」
「誰かが傷つく可能性があるが、それなりの根拠があり、反論を受ける覚悟があって、かつ文章にして世に問う価値があると判断できる場合」
 物書きとして覚悟が問われるのは後者の場合でしょう。で、私としては、当然『竹熊1,2』を後者のケースだと想定して、いろいろ質問を用意していました。その一部は暫定版である『抗議文』にも書きましたが、岡田さんは見事に回答を避けられました。
 あのですねえ岡田さん。「主観である」からって逃れられると思っていたら大間違いですよ。何度も言うようだけど、「主観」と認めることはあの手の文章では単なる前提で、そこから本当の議論が始まるんじゃないですか。せめて、

【そのあたりから確かに竹熊氏の、庵野氏に対するニュアンスは微妙に変わりだした】(竹熊2)

 という岡田さんの文章に対する私の質問「どう変わったのか?」くらいには答えていただきたいものです。今回の『イイワケ』でも似たようなこと(「最近になって、ようやく竹熊さんのエヴァ熱が醒めてきた」)をまた書かれていますけど、具体的にどう変わって、どう醒めてきたのかハッキリ書かれないので私も寝覚めが悪いんですよ。ひょっとして自分がどこかで「そう誤解される発言をしたのかな?」と心配してまして。これについては噂話でもいいですよ。はっきり具体的に書かれれば、こちらの真意が説明できますから。
『竹熊1,2』に関しては全文に渡って反論する用意があるのですが、いちいちやっているとえらく長い物になりますので。とりあえず暫定版の『抗議文』を送って、岡田さんの反応を見たわけですが、岡田さんはそこでの最低限の質問にすらお答えにならない。書かれたことは文字通りの言い訳で、これは謝罪でも反論でもないですね。「自分の舌足らずな発言を、まずお詫びする」と書かれてますけれども、最後まで読めば結局“これは岡田の主観なんだから文句言うな”としか、私には読めませんでした。
 そもそも今回の件で岡田さんに対して(プライヴェートな場ではありましたが)「まず主観であることを認めてもらいたい。主観はそれとして尊重する。そこから議論を始めたい」と提言したのは私だったんですよね。ここで書いた文脈で私はそう言ったのですが、ひょっとして岡田さん、「主観と明言すれば許される」と勘違いされたんじゃないですか? たとえばですよ。私が何かのエッセイで「これは私の主観だが、岡田氏は、現在のガイナックスと庵野氏の成功に嫉妬しているようだ」と書いたら、岡田さんはどういうリアクションをされます? あくまで「たとえば」の話ですが。でも私がそう決意すれば、過去の岡田さんの発言や、お書きになった文章から恣意的に引用して、「根拠」らしきものをでっちあげることができますよ。やりませんけどね(笑)。

●岡田さんのアンビバレンツな態度

 さて『竹熊1,2』での竹熊像が岡田さんの主観(思いこみ)によるものだということがハッキリしたとして、ではいかなる理由で岡田氏は竹熊に対してこういう「思いこみ」を抱くに至ったか、という点に興味が移るのも、私の立場からすれば当然だと思います。
 いや、単に私に対してばかりでなく、岡田さんが『エヴァ』に言及する際に、非常に奇妙な、奥歯に物がはさまったようなアンビバレンツな態度を感じるのは、あながち私一人ばかりではありますまい。この点をまずクリアーしなければ、私と岡田さんの『エヴァ論議』は始まらない、と個人的に確信しているわけです。なぜこう確信しているか、順を追って説明しましょう。
 まず私が疑問に思うことは、岡田さんご自身は『エヴァ』という作品(作家・現象を含む)を実際のところどう思っているのか、ということです。そもそも関心があるのか? ないのか?
 かりに「関心がない」とすると、なぜ『エヴァ』に熱中するファンを「現実逃避の信者」扱いしたり、私や大泉さんのように『エヴァ』に肯定的な人間を揶揄して回るのか? 関心がないのなら、ほっときゃいいじゃないですか。
 反対に「関心がある」とすると、どうして岡田さんは作品論や作家論にキチンと言及しないのか? この方面での岡田さんの「まともな」論考を、私はまだ読んでないんです。まあ『オタク学入門』で「日本文化の場合、作り手と受け手の間で切磋琢磨して文化は進化する。では、作り手と受け手は対等なのかというとそうではない。実は、『作品の良さを理解して言葉にできる』という『受け手』の方が日本文化では偉い、とされているのだ」と書かれている岡田さんのことですから、作家論に言及しないのはとりあえずいいとして、作品論にすら言及しないのは不思議でなりません。
 近年のアニメ界を揺るがしたこれほどの作品です。お得意の「粋の眼」「通の眼」「匠の眼」でスパッと読み解かれたらいかがでしょう。いや、これはマジで読んでみたい。そう考えている岡田ファンは相当数いると思いますから、バカ売れ間違いなしでしょう。将来お書きになる予定があるか、または私が知らないところで既に書かれているのなら、お教えくだされば幸いです。
 私の知る限り、岡田さんが『エヴァ』に言及するケースはほとんどが「状況論」ですね。最近の例ですと、たとえば『アエラ』97年7月28日号で、岡田さんは「エヴァ・ブーム」の秘密を、取材した編集者(保科龍朗氏)に向けて、次のような内容のコメントを語られています。
「エヴァンゲリオンを制作したGAINAXの元社長で、東大で『オタク学講座』を教える岡田斗司夫さんは、エヴァンゲリオンに感応する心理の底流に、日常の懊悩、抑圧感が消え去ってしまったために、悩める人を崇めようとする人々の内面を読みとれるという。八〇年代後半から大量に流入したマスメディア内部のオタク世代の過剰反応が相乗作用を起こして、『現象』となった」
 まずこれは岡田さんの文章ではなく、あくまでも岡田さんの発言をもとに編集部がまとめた文章だということで、いくぶん割り引いて読む必要があると思います。が、それにしてもこれはヒドイ。岡田さんが本心からこう考えていらっしゃるのか、この機会に確かめてみたいんですが。
 特に私が唖然としたのは「日常の懊悩、抑圧感が消え去ってしまったために」の部分なのですが、本当にそんな人間がこの世界に存在するのでしょうか。何を根拠に岡田さんはそう思われたのでしょう。また「懊悩、抑圧感が消え去ってしまった」人間がかりに存在するとして、それが「悩める人を崇めようとする」というのも、ちょっと常識では理解しがたい行為です。それって結局「崇める側」にも「実は懊悩、抑圧感が存在する」から、「共感して支持する」のではありませんか?
 まあ文章が短いうえに、他人の手でまとめられたものですので、こちらの誤解という可能性はたぶんにあります。つまらぬ揚げ足取りをする気はありません。万一これが岡田さんの本意ではないとするならば、おせっかいかもしれませんが、即刻『アエラ』に対して訂正記事を要求することをお勧めします。少なくとも私ならそうしますよ。文責は他人にあるとはいえ、「自分の意見」として無茶苦茶な妄想としか思えないものが活字化されたわけですから。
 さて、私なりに考えて、岡田さんのこうした態度に唯一合理的な説明が与えられるとすれば、岡田氏の『エヴァ』に対しての関心が作品にも作家にもなく、ただ「現象」にのみ限定して存在する、という可能性です。要するに岡田さんは『エヴァ』を論評する価値のない作品だと考えているのだが、作品自体はキャラクター商品を含めて「ヤマト・ガンダム以来」とも言われるメガ・ヒットになってしまった。そこで「おたく評論家」としては、この「現象」だけはなんとか読み解かねばならない、という立場ですね。
 この立場は確かに「あり」かもしれませんが、しかし「作品」それ自体の価値を完全に切り離して「現象」のみを論評するというのは、やはり無理があるんじゃないでしょうか。岡田さんの『エヴァ』評に見られる奇妙なアクロバット的言説は、こうした無理のうえに成り立っているように思えてなりません。以上は私の主観ですけど、実際のところ、どうなんですか岡田さん。
 よく非常識な教義を抱く宗教に向けて「イワシの頭も信心」と揶揄する言説がありますけど、陰でコソコソ言うならまだしも、公にそうした意見を表明するには、まずその教義が「イワシの頭」であることを証明してからにするのが筋というものです。いや、そうしなければ説得力がありません。『竹熊1,2』を読んでも分かるとおり、どうも岡田さんは『エヴァ』(や庵野氏)を「宗教」に、またそれにハマる人間を「信者」扱いされる傾向がおありのようだが、『エヴァ』(や庵野氏)のどこが宗教なのか、一度キチンと「作品論」(及び作家論)として論証されてみてはいかがですか。
 関心があるにせよ、ないにせよ、『エヴァ』をめぐる岡田氏の態度や言説は、とても奇妙なものだと私の目には映ります。どうして岡田氏は作品論や作家論にほとんど触れず、状況論に固執するのか? それとも岡田氏には、作品や作家には触れたくないなんらかの事情がおありなのか? ……『抗議文』でも書いた、「岡田斗司夫の抱いているらしい『エヴァ』や庵野秀明氏に対するアンビバレンツな思い」というのは、要するにこうした岡田さんの態度から導き出された、私の主観です。反論があればどうぞ。そこから本当の議論が始まると、私は考えていますので。



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