●岡田氏よ、あなたもまた「病気」なのだ
 ところでいい機会なので、ここで私なりの『エヴァ』観をはっきりさせておこう。私は庵野氏の『エヴァ』を、商業的なアニメーション制作システム(集団作業)の中でギリギリまで「個人」を追求して作られた見事な「作家のフィルム」だと考えている。そしてその「個人(自己)の探求が、作品の表面上の出来不出来を越えた「感動」を我々にもたらしたのだ、とも。
 また私は『エヴァ』に熱中することが、岡田氏が巧妙に書かれているような(あたかも新興宗教にハマるがごときの)「現実逃避」とも考えていない。いや、事態は全く反対であろう。
 確かに『エヴァ』は、商業作品としてはいびつな面を持っている。それはストーリーの整合性に欠けるという表面的な部分でもそう言えるが、なによりも作中に登場するキャラクター全員が心に傷を持ち、それを臆面もなくさらけ出すという意味で「病的な作品」だと思う。
 だが少なからぬ数のエヴァ・ファン同様、私もまず、その「病的」な部分に心惹かれたのである。なぜなら自分の中にもそういう「病気」が存在していることを自覚しているからだ。そして『エヴァ』がここまでの巨大ヒットをなしえた事実は、単に「登場するメカがかっこいいから」とか「レイやアスカがオタク受けするキャラ・デザインだから」といった表面的なものに止まらない、もっと広い「時代の病」を反映しているからではないのか。私はそこに共感したのであり、今もこの思いは変わらない。
 しかし、だからといって「エヴァ現象」そのものを「病気」だの「現実逃避」だのといって済ませてしまってよいとは思わない。私は、そういう言辞を吐いて自分を安心させる神経もまた「立派な病気」だと思うのだ。
「心の病気」なるものの治癒の第一歩は、まず患者が自分を「病気」であるとを自覚し、これに直面することから始まるという。その意味で『エヴァ』は、「時代の病」を映し出す鏡(自己に直面させる道具)として、これ以上はないほど見事な同時代表現たりえているのではないか。
「時代の病」とは何か? それは私が『私とハルマゲドン』でも指摘した「豊かな時代にあって個人を確立することの困難」のことだ。また大塚英志氏が言う「通過儀礼なき時代にあって、大人になることの困難」でもいい。私の見るところ、現在三十歳代の論客は等しく同じ問題を語っている。それに対する解答はまちまちかもしれないが、共有している「病の意識」はみな同じなのだ。もっともこんなことは、東京大学非常勤講師でもある岡田氏には釈迦に説法かもしれないが(ちなみに岡田氏が雑誌やテレビに出る際肩書から「非常勤」が抜けていることが多いようだが、これは身分詐称になる恐れがあるので、編集者やディレクターにはよく言っておいた方がいいと思いますよ)。
 私に言わせれば、監督の庵野氏も、私も、そして岡田氏よ、あなただってこの「時代の病」から無縁ではない。ただ庵野氏とあなたの違う点は、庵野氏には少なくとも「病」に直面する勇気があり、あなたにはそれがカケラもないこと。その意味で、私はあなたを「かわいそうな人物」だとすら思う。
 岡田氏よ、あなたが庵野氏や『エヴァ』に対してどのような「思い」を抱こうがそれは勝手だ。しかし他人をこんな形であなたのエゴに巻き込まないでほしい。直接「自分の意見」として文章化する度胸もなく、私に対するこうしたふるまいや、あなたが「週刊アスキー」でみっともなく謝罪する羽目になった大泉氏のように、『エヴァ』に肯定的な人物を揶揄する形でしか「思い」を表明できないのは、これこそまさに「病的な態度」だと思うが、いかがか。

 以上が私の「とりあえず」の反論だ。岡田氏の文章に沿った具体的かつ詳細な反論と、(岡田氏を含めた)我々一人一人が無縁ではない「時代の病」がいかなるものかについては、近く稿を改め、書かせていただく。
 それにしても、つくづく『エヴァ』は大した作品だと思う。おそらく『エヴァ』に対するもっとも有効な反論は、『エヴァ現象』をも含めて「無視すること」しかないのである。なんらかの反応を示したが最後、その人もまた、その人に見合った形で『エヴァ』に取り込まれてしまうのである。私はもとより岡田氏のこうした反応も、もうひとつの『エヴァンゲリオン』だと思うのだが。
           (一九九七年七月一四日、記す)



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