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<back-number>
信越本線の終着駅がある横川だが、かつては軽井沢まで列車が走っていたらしい。そんなことを考えながらキャビンに戻り、横川のドライブインを出て、碓氷峠へ向かう。
碓氷峠は、最大斜度で勾配66.7%を誇る急坂の難所で、この碓氷の峠越えをするのに列車は長らく横川で待機するから、その待ち時間に食べる釜めしが有名になったって訳だ。
―――食ってすぐは眼が冴えるんだよね。
釜めしを入れて満腹になったら眠くなるのはほぼ間違いないが、食べてすぐは胃が活動しているので、逆に眼は冴える。まあ、ここからは峠だから眠くなるなど考えられないのだが、いずれにせよ、横川の釜めしは難所を越える前の腹ごしらえとしてはちょうどよかった。
碓氷の関所は、中山道の木曽福島、東海道の箱根および新居と並んで、四大関所として恐れられていた。関所を置いた江戸幕府は、江戸の治安維持と称して“入り鉄砲に出女”を厳しく取り締まっていたのだ。
要するに、クーデターを起こさせないために江戸に入る鉄砲を取り締まったので“入り鉄砲”、そして、各藩が江戸元に置いている人質の妻や母といった女衆が、故郷に逃げ帰らないように厳しく監視していたから“出女”、という訳だ。
結局のところ、広大な関東平野にあっても、この峠以外に越せる道がなかったことをも窺わせる。
―――やっぱり家康公は頭がいい。
碓氷の関所跡を見ながら、俺はそう感じ入りつつ、関根さんを待つ。
ほどなくして、関根さんは興奮した面持ちでつぶやいた。
「いいよ、この辺はいい。」
俺はブラジル葉の葉巻に火を点けて、くゆらせる。そして濃い煙は吐き出しながら、思考を巡らせる。
徳川家康は、関東平野一円を城下町と捉え、自然の要塞に守られた場所と考えていたに違いない。その地の利ゆえに、江戸は大きくなって、その後の江戸幕府が長らく繁栄するであろうことも分かっていたはずだ。日光に東照宮を置いて、そこに祀られることで未来永劫、関東平野を見守り続けたいと考えていたことにも符合するだろう。
現在では、首都・東京とそれを取り巻く首都圏の存在を当たり前のように受け入れている我々ではあるが、当時ほとんど手つかずの寒村ばかりだった関東平野に、国の中枢を持ってくる家康公のアイデアは革新的だった。
街道を走っていれば、どこにいても江戸元、日本橋に通じていることを意識させられる時がよくあるが、そこでつい、想いを馳せてしまう。五街道を整備した家康公は、トラッカーの父なる存在だと言えるのかもしれない。
「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギスってね。」
碓氷の関所を越えると、碓氷峠の前に坂本宿がある。坂本宿は、今では旧街道の記憶に寄り添う山間の集落だが、江戸時代は参勤交代の大名たちが必ずと言っていいほど利用する大きな宿場町だったらしい。
当時は大名が利用する本陣、本陣の代わりとなる脇本陣、一般の旅人が利用する旅籠、その他商家が160軒ほどあったという。その村を通り抜けると、そこはもう碓氷峠である。
ところで、俺が上州の運転手に憧れていた理由のひとつに、峠越えがある。
峠を越えることの困難さは、夏場においては“骨が折れる”ぐらいの比喩表現で済むところが、冬場においては身の危険を伴ってトラッカーを慄然とさせるのだ。
冬の薄暗い雲が辺りをどんより覆い始め、やがては雪がシンシンと降りだす。たとえスタッドレスを履いていようが、嫌な予感しかしないものだった。そして、そんな時に荷物を抱えて峠を越えなければならない身の遣る瀬無さと言ったらなかった。
俺の師匠が、冬場のトレーラーの恐ろしさを教えるために話してくれたことがある。
師匠が20トン満載のトレーラーシャーシを引っ張って、冬場に峠越えをしていた時のこと。時刻は真夜中、折からの雪が本降りになって、山を下り始める頃には辺り一面は真っ白に雪が積もっていたという。だが、駆動輪にチェーンを巻いていた師匠は、特に気にすることなく下っていった。その後まもなく、後ろから押される感覚が来る。
グイッグググググイッ。
トレーラーは、ヘッドと呼ばれる頭と、荷物が積まれているトレーラーシャーシが分離しているので、ブレーキを踏めばヘッドとトレーラーシャーシの両方にブレーキがかかるように設計されている。ところが、稀に雨が降っている場合や、シャーシ側のブレーキの利きが悪い場合に、この後ろから押される感覚を味わうことがある。
―――このままだとジャックナイフを起こしてしまう。
ジャックナイフとは、制御不能になったトレーラーシャーシにヘッドが叩きつけられて引きずられることで起こる、トレーラー特有の現象のことだ。ヘッドとトレーラーシャーシをつなぐピンの位置で、ジャックナイフのように折れ曲がることから、そう呼ばれている。
師匠はトレーラーブレーキを引いて、シャーシだけにブレーキをかけてみた。しかし、全くブレーキが効いている感じがしない。
トレーラーブレーキによってロックされた車輪は、凍てついた路面をただただ滑るだけだった。荷物と自重を合わせて30トンのトレーラーシャーシに追いかけられる体で、長い直線をフルブレーキと共に進み、押しこまれてピンが回転しそうになってはブレーキ解除を繰り返した。
そうして最後は、ほとんどノンブレーキで峠を駆け抜けたらしい。30トンのシャーシに追いかけられながら…
「怖えぇぇ。」
俺は思わずそう叫んだのを記憶しているが、実際どんなトラックであれ、キャビン越しに峠道を見ていれば、その恐怖はありありと蘇ってくる。ある程度、首ふり(トレーラー)に乗っていれば、30トンを牽いたあの重量感は忘れようにも忘れようがない。
白昼夢のように緑と光が煌いている碓氷峠の峠道を走りながら、笑いが抑えられなくなっていた。
―――しかし大したタマだよアンタは。
非常に癖の強い性格だった師匠を思い出すに、この峠話は120%ホラだと断言できる。全くスレていなかった初心者の俺はまともに信じたが、師匠はどこかでその話を聞いて、それをさも自分が体験したかのように話していたに違いない。
実際、こうした街道伝説は引きも切らず、運転手の間でまことしやかに語られているものが多い。ただ、そんな話をしてくれた師匠には感謝している。なぜなら、ジャックナイフは起こったらほぼ不可避で、トレーラーはガードレールを突き抜けて、谷底に落ちてしまうだろうから。
冬の峠で起こる不幸な事故というのは、トレーラーに限らず、たくさん存在している。それらを語る人がいないだけなのだ。
―――この旧道は、雪が降ったら通行止めだろうが。
そんなことを思いながら碓氷峠を越えていく。
旧道は狭く、とても大型が通れるような道ではなかった。碓氷バイパスが通っている現在、こんな曲がりくねった街道筋を通るのは物好きしかいないだろうが、その分、他に車も見当たらないしドライブにはいいのかもしれない。走り屋が残したタイヤ痕も、そこかしこにあった。
いつの世も、荷物を抱えて困難な道を行った先達はいる。行きずりの事故で命を落としてしまうとしても、使命として“峠の向こう側へ荷物を届ける”と、草鞋の紐を結んだ連中が多く存在したはずだ。それは現代だって変わることはない。
俺は東日本大震災の際、操業を再開した東京湾岸のコンビナートに集結したタンクローリーの集団を思い出す。
彼らは、寸断された東北道と国道4号を迂回し、被害の少なかった日本海側の油槽中継基地まで、新潟経由で燃料をピストン輸送していた。テレビのインタビューに応える彼らの顔はどれも穏やかで、被災地へ燃料を届ける使命を当然のことのように受け入れていた。折しも日本海側は雪。カメラは雪の中を突き進む勇ましい姿を映していたのだった。
俺は気持ち丁寧に、エンジンブレーキと排気ブレーキをつないで、峠の坂を下っていく。
―――なあ、トラッカーって、走りながら誰かのために祈ることが出来る職業だよな。おい、そうだろ。
誰でもなく街道に向かって、そう問いかけていた。
中型はつづら折りの坂を降り切って、やがて軽井沢へと出る。
いよいよここからは、信濃の街道だ。
◇企画協力:株式会社ヨシノ自動車
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