父が3回結婚したのでわたしには戸籍上3人の母親がいて、現在は義母もいる。2人目の母親は電話で話しただけで会う前に離婚してしまったので面識のある母は3人だ。
困ったとき「おかあさんがいてくれたらいいのに」と思うことがある。そのとき思い浮かべる母親は上記の誰でもない。BAY MAXみたいなふわふわでふかふかな、ポニョのおかあさんのみたいに神秘的な知恵を持ち、ドーラみたいに現実的な渡世術とたくましさを持ったなにか。そういう「おかあさん」に甘えたい。そしてどうしたらいいか教えてほしい。
実母≠おかあさん
今日は頼まれていたものを届けるため実母に会ってきた。実母とは例の梯子外しの件以来連絡をとっていなかった。夫と二人で約束の時間にチャイムを鳴らすと、実母はドアを開けてすぐに引っ込み、グラスに入れた一杯のお茶を持ってきた。「暑かったでしょう。これ、氷はないけれど」そういって母はもちおにグラスを差し出した。家に上がらず、すぐに帰れということだ。
立て替えていたお金の入った封筒をあけると、中に葉書きが入っていた。「もっちゃんに何もしてあげられずごめんね 大丈夫だと心から思っています」実母はわたしが危機に陥ると、よくこんな風に「経済的にも手数の点でも一切支援する気はありません。よく心得ておいてください」を婉曲的に表現する手紙を寄越してきた。もう驚かないつもりでいたけれど、借金の無心でも断るようにわざわざ念を押されるとショックを受ける。
実母は人として見ると稀有な才能をもったユニークで美しい女性だ。でも、わたしが苦しい時に心の中で呼ぶおかあさんではない。自分を生んだ女性だけが自分の母だと思っているとこういうとき心理的に孤児のような気持ちになり、ダメージが大きい。
しかしさいきん人の成り立ちについて考えるようになって*1、「おかあさん」は自分を出産した女性に限定する必要はないんじゃないかと思うようになった。実母は生物学上わたしの母だけれど、養育的でも保護的でもないし教育者としても適任とは言い難い。それなのにわたしが実母をおかあさん認定してしまうのは「おかあさん=自分を出産した女性」だと思い込んでいるからだ。
そもそも苦しいとき、辛いとき、困ったとき、寂しく心細いとき、血の繋がりによって強められるだろうか。どう考えてもそうではない。血の繋がりは魔法のように需要や慰撫をもたらしてはくれない。自分を出産した女性や遺伝的につながりのある男性が保護的、養育的で教育者として能力が高いなら、それはとても恵まれたことだ。おそらくそんな人はそれほど多くはない。
おかあさん要素
わたしが求めるのは保護者、養育者、教育者として安心して自分をゆだねられる年長の人物であって、自分を出産した女性である必要はない。なんなら男性でもいい。マツコ・デラックスなんか、かなりベイ・マックスっぽい。「夫がオネエ言葉で話すと妙に癒されて和む」と妹と話したことがあるけれど、ある種のおかあさんムードに慰められているんじゃないかと思う。
ヨガ教室の先生はわたしが理想とするおかあさんムードを持っていた。一時間みっちりヨガをやってくたくたになり、最後に大の字に横になると、先生は生徒一人一人の目蓋にアイマスクを乗せて回る。そして何かいい香りのするアロマオイルを鼻先ですりあわせ、ほんの少し強く両肩をぎゅっと押さえてくれる。まるで布団を襟元で押さえてもらっているような気持ちになる。はじめてこれをやってもらったとき、「このヨガ教室に通おう」と決心した。
いわれるままに身体を動かし、大人しくいうことを聞いて、最後によしよししてもらう。この流れは一種の幼児退行願望を満たしてくれるものだった。ふりかえってみると赤ちゃんまでいかないけれど、幼児プレイみたいだったなあと思う。
おかあさん需要と逆風
おかあさんを求めるのは幼児だけではない。育児につかれた田房永子さんはもっとダイレクトな願望の満たし方としてデリヘルを頼めないかと考えた。「デリバリーヘルス」という言葉の意味にふさわしい利用方法な気がする。しかし自宅に呼ぶと「あの家の旦那さんは自宅に風俗サービスを呼んだ」と噂されるからやめてほしいと夫にいわれ、諦める。
自宅ではなくホテルを利用して子供帰り願望を満たしたレポートがこちら。
おかあさんの需要は高い。しかしこの種のごっこ遊びは実母が他界していれば「亡き母を懐かしむ」と言い訳が利くけれど、存命中は一種の浮気にあたるせいか、世間の風当たりは強い。
おかあさん選びの自由度の低さ
「おかあさんは実母、でなければ育ての親か戸籍上の母」という慣例に従い、素養があろうがなかろうが、関係の中でどれほど悲惨なことがあろうがおかあさんをよそに求めることに眉をひそめる人は多い。自分で選んだおかあさんに財産を残し、自分を出産した女性と絶縁なんてしようものなら大変なことになる。どんな深い事情があったとしても「でも親でしょう」「親子なのに」を絶対的な真理として訴えてくる人は必ずいる。同様に、成人していても出産した人物についてはいかなる事情であれ生涯に渡って責任を持つべきだと主張する人もいる。大人同士の関係では接点のないようなつきあいづらい人物だった場合もだ。
おかあさんにもとめられる資質は多岐にわたっており、個人差もある。子どもすきで愛情豊かでもなぜか我が子はかわいく思えない人もいる。生物学的にはよその子に熱烈な愛情を抱く人もいる。身の回りの世話は得意だけれど心理的なケアは苦手な人もいるし、その逆もある。老若男女問わずたくさんのおかあさんが連携して子育てに取り組み、子らは血縁に限定せず生涯にわたって多くの親子関係を結び、ゆくゆくはおかあさん孝行できる社会ならいいのに。
おかあさんがほしい。そしてわたしも誰かの保護者、養育者、教育者としてチームおかあさんのメンバーになりたい。ふかふかしてないからぎゅっと抱きしめるBAY MAX的需要は満たせないかもしれないけれど。