その汚い口でこの愛を汚すな。
。
「イルネーネル、お前はいつも仏頂面で笑うことを知らないのか?…つまらない女だな。
俺はお前のような女を妻にする気はない。お前とは婚約を破棄してこの良く笑う魅力的な女を妻にすることにする。いいな」
今でも夢に見る。あの日の屈辱と羞恥。観衆の哀れみ、蔑んだ瞳。心無い言葉。くすくすと笑う貴族子弟達の声。悪夢のような日だった。告げられたのは社交界にデビューする前のデビュタントたちがダンスを覚える学園のダンスホールで、その総仕上げともいえる卒業プロムでの出来事。
この国では貴族のデビューはこの学園のプロムの後に行うのが伝統だった。
殆どの有名貴族はこの学校に通うのが決まりで、この学校を卒業したその日が大人としての成人を認められる一歩として捕らえられているからの伝統で、ここには大人になる子息子女のデビューの前祝のダンスに集った角界の重鎮や子息子女や子弟の家族も大勢その晴れ舞台のダンスを見に訪れていた。若い男女が手を取り合ってダンスホールの真ん中に並んでダンスを披露する。
だいたいは親に決められた婚約者とともに踊るのが殆どで、イルネーネルもこの日は自分の婚約者の王子と踊る予定だった。そうイルネーネル自身は信じていた。
このプロムでのダンスが終われば、次は本番の社交界でのデビューが待っている。
学校での催しには国王は来ないが、一番初めの舞踏会は国王夫婦が主催で王の前で今度は踊るのだ。
その予行練習としてのダンスとはいえ、正式にみんなの前で踊る最初の日である。
公爵家に生まれ人一倍、厳しい教育を受けており、小さい頃より将来の王妃と決められてきた彼女は過酷な王妃教育もこなしてきていた。この場では失敗は許されない。誰よりも優雅に美しく踊らねばならないとイルネーネルは緊張し、常に張り付いた人に感情を読まれないために身につけた鉄面皮の表情を些か険しくして件の自分の婚約者を待っていた。
ダンスが始まってもイルネーネルのパートナーである王子が現れない。
それにイルネーネルは焦っていた。失態は許されないのに、既に王子が現れないことが、イルネーネルの失態であると気持ちは焦り、混乱していた。早く現れて。一人っきりのプロム会場で、イルネーネルはたった一人の自分の婚約者を待った。探しに行ってくれるよう使いを出したのも一人二人ではなくなっていた。
そうして、大分遅れてダンスホールの会場に訪れた彼の手には自分ではない女性が抱かれていた。
随分と見下した馬鹿にした顔を二人にイルネーネルは向けられた。
そして彼らはダンスホールの中心に向かうと一緒に踊り始めた。
会場はざわめきが起き、そして静まり返る。一曲終わる頃には皆が気付いていた。
王子のこれから成すだろうことに。噂は前からあった。だがそこまで馬鹿なことはしないだろうと
皆半信半疑で触れることもなかった。
あれは王子が最近連れている庶民出の男爵の娘よね。養女になったという。
そう誰かがささやく。見てあの顔。王子は自分のものと誇っているわ。イルネーネル様を見て笑っているわ。
とても踊りなれているといえないダンスを踊りきった少女とその腰に手を回す王子は冒頭の言葉をみんなの前でイルネーネルに叩き付けた。
「王にはお前は王妃にはふさわしくない女だと進言しておく。お前はこの男爵の娘に嫉妬して嫌がらせをしていた心の汚い女らしいからな。しかもふしだらにも今日のプロムを俺以外も誘っていたそうじゃないか?その様子じゃ全部断られたんだろうな。当たり前だがな」
根も葉もないことを真であるように王子はすべらかに痞えることなく周囲にも聞かせるように大声で話した。王の言葉は白であっても王が黒といえば黒になる。同じようにこの場の支配者は王子であり王子がこうと言えばそうなってしまう。それだけの影響力が王子にはあった。それが偽りだろうと察せる者がいたとして王子にそう反論するだろうか?王子の不況を買うと知っていて。
誰もいなかった。イルネーネルを庇うものは。イルネーネルを生贄として排除することで王子の言葉の正当性は守られ、例え冤罪でも王子を誹謗することは避けられる。
観客は一人の少女が貶められるのを見ないふりをして無言でいることが利口であった。
その日に社交界デビューを前にして一人の少女が貴族社会から姿を消す。
彼女のその後がどうなったのか、憶測は王子の耳の届かない地下で囁かれたが、その真実までも知ろうとするものはいなかった。触らぬのが利口。暗黙のルールのように緘口令が敷かれたのか誰も彼女の存在さえも口にするものはいなくなった。
そうして数年の時がたった。
少女はとあるそれなりに歴史のある修道院に修道女として暮らしていた。
その修道女の目に翳りはない。あの貴族社会に身を置いていた頃の緊張感も消えたように
それは晴れやかに笑う普通の同世代の少女と同じように笑い、起こり、落ち込む少女の姿が
見受けられる。少女はここに来て漸く生きる喜びを知ったというように跳ね回る小鹿のように
元気に生きていた。
「修道院がこんなに私に合っているなんて思わなかった。ここにきたら好きなものを勉強できるし、堅苦しいルールもないし、自由時間は本当に自由なんですもの。いつも人の目を見て行動しなくて良いってなんて楽なのかしら」
彼女は修道院の図書室から借りてきた本を開く。そこには王城では習うことがなかった近代科学の本があった。もちろんこれは極秘の本である。しかし、図書館の変わり者がこっそり収集している秘蔵の本。仲良くなった彼女はイルネーネルの知らなかった広い知見を教えてくれる。
彼女は先輩修道女ながらここで様々な研究もしている。
王宮からは遠く離れたこんな海岸線の近い修道院だから堅苦しさを抜けた思わぬ自由さがあった。
イルネーネルはここで初めて自分の意志で動いて良いのだと教えられた。
貴族でのイルネーネルは生きた物扱いだった。
親も婚家になる国王もイルネーネルに対して求めるのは完璧な王妃としての行動。
こういう時はこうしろだとか、王宮での家臣への振る舞い。常に上に立つものとしての厳しさ。
女にも帝王学があり、世渡りがあるのだと現王妃やその周りの侍女に叩かれる。
貴方の品格が国の品格になるのです。言動も貴方個人ではなく国の言葉となることを理解しなさい。
そう言われて手を叩かれた。あの日々は遠い過去になっていた。
風の知らせであの王子は周囲の反対にも耳を傾けることなく強固にあの娘を王子妃にすると
言って曲がらず、結婚にこぎつけたと聞いた。そこまであの人を物扱いしてみる王子が情熱を持って誰かを愛するのかと思えば、過去の自分への仕打ちも許せるかもしれないと思えるところまでイルネーネルはきていた。自分はいつか捨てられるのが分かっていた。王宮に止まり愛妾に馬鹿にされる王妃となるより心安らかにここにいた方が幸せだったかもしれない。恋の盲目ともいう。王子の振る舞いは決して褒められはしないが恋に溺れる愚かな行動だと思えば、自分に魅力がなかったことにも問題があるとイルネーネルは思えたのだ。
「イルネーネル様、王子妃が懐妊したらしいですよ」
「それはお目出度いわね」
「本気で言ってらっしゃいます?」
「ええ。本気なのよ私。ここでとっても幸せに暮らせているから」
「…そうですか。…お父君が王子にお子が生まれたのならイルネーネル様を修道院から出してこの国では叶わないが好いた男と結婚させてやりたいと仰られておりましたよ。貴方は国のために犠牲となり、今日まで文句も言わずここで耐え抜いたのですから」
「…そう。父は私に甘いわね」
「みな、分かっているのです。貴族だってそう馬鹿じゃない。情報は貴族社会を生き抜くのに必須だ。誰がどのようなことをしたのか、目ざといものは承知でしょう。しかし、王権を揺るがしてまで貴方を救えない。断腸の思いで見送った者もいるのです。男はいつの世もこういう場合身勝手ですからね。もう少し、女側に不幸がこぬように配慮すべきではあったんですが」
「いいのよ。…それより、貴方、頻繁にここに来ないでね。…貴方父の用事だといってはここへ訪れて、確かに言伝をくれるけれど、人の目は恐いのよ。噂になりたくないの。もう、あまりこないでね」
「…。」
優しい人もいる。表立っては出来ないけれど手紙をくれて嘆いてくれる友人もいた。
ここにきてそう言うものにも気付いたとイルネーネルは思い、そして彼らに迷惑をかけないよう
静かにここで一生を過ごすつもりでいた。
それが打ち破られるのはちょうど王子妃が臨月を迎えた辺りのことだった。
「お前を新たな妃とする。すぐに用意してここを出て行けるようにしろ」
元婚約者の王子がなんの先触れもなく深夜に修道院を訪れた。
そして当たり前のように告げられた言葉にイルネーネルは苦笑した。
思わず言ってはいけない余計なことを口走りそうになる口元を衣服で隠した。
『新しい王子様は王家の瞳と髪を譲り受けなかったそうですね』
と。
それどころか誰に似たのか緋色の赤色の髪をして生まれたそうだ。
その子は人目を避けるようにその日に処分されたとの話だが、
可哀相なことだとイルネーネルは思った。
そう間を置かず、子供は死産だったと国中に悲報が告げられるだろう。
王子妃は産後の容態が思わしくないと告示されるか、一緒に死んだとされるか分からない。
しかし、そのすぐ後にすぐ新たな妃をしかも一度自分が捨てたものに打診するとは
この人はどこまで人の感情を無視するのだろう。
「お断りします。もう私は神に仕える修道女です」
「そのことなら心配ない、俗世への帰俗は難しくない。くだらないことを言うのは寄せ。もう一度、世に戻してやろうと言うのだ。しかもお前が失った地位に戻れるのだ。感謝するべきことだろう」
傲慢な物言いにイルネーネルは柄にもなく憤りを覚えた。
それが怒りとなるのも早かった。
「貴方には心底愛された妻がおありでしょう?一度の過ちか知りませんが許して差し上げてもよろしいのでは?中々懐妊せず不安だったとお聞きします。その間、貴方は他の方にも色目をかけていた噂があるようですが…」
「ほおぅ。こんな鄙びた僻地にいても耳は確かか。さすがは王妃教育も難なくこなした女と言うわけか。あれとは違うな。浮気程度で騒ぐは妊娠はせぬは、したら別の男の子とはどこまでも腹立たしい恥を掻かせる女だ。やはり育ちの悪い女はだめだと良く分かった。王にも大分叱られた。王位継承も考えるとまで言われた。まったく酷い有様だ。」
ほとほと疲れたと笑う男にイルネーネルは抱いた怒りが今すぐに燃え上がる炎ではなく
暗く冷た炎に揺らめいていくのを感じた。
ああ、この人は彼女までものであったのか。自分のための道具だったか。
「貴方は私を振る時に公衆の面前で彼女を真実の愛で愛していると仰りました」
「なんだ、古い話を持ち出すな。煩わしい。そんなもの一時の熱病だ」
それで私は何もかもを失ったのだ____。
「分かりましたわ、王子。ですがすぐにここを立つことはあまりにも急で出来かねます。三日ほどお待ちください。必ず王都まで参りましょう。王子は一足先にお戻りを」
王子を何とか返した後にイルネーネルは手のものを使い父に使いを送り、王子妃の安否を確認した。事は一刻を争う。行動が早かったのか、王子妃は密通相手を取り調べるために今だろうにいると知る。そしてそれを知るや彼女を牢の外へ出すようになんとか計らって貰う事を打診した。
イルネーネルが王都についた日の夜に嘗て自分を嘲笑っていた少女が変わり果てた姿でイルネーネルの足元にいた。大分粗雑に扱われたらしい。産後だと言うのに酷い話だ。
「王子以外の人の子を産んだらしいわね」
「…笑いたいわけ?」
下からね目付け上げられた。
「馬鹿ね。せめて王子に似た王族の誰かにしておけばもしかしたら誤魔化せたのに」
「王族よっ!!だって相手は王子だもの。私は彼以外となんてっ!!」
「…。(あわれね…)貴方が言うならそうなんでしょう」
「信じるの?あたしみたいな売女の言うことなんか?」
ふと彼女の口に嘲りの笑みが浮かぶのがイルネーネルには見えた。
「信じるわ。…きっと王子の亡霊と寝たのね。そう、王宮は恐いところよ。嵌められたのね」
「…どういうこと?ねえ、王子の差し金だったの?ねえ?あの人、私以外とも最近は一緒にいるのよっ!!」
「…もう一度王子に会いたい?どうなっても?まだ愛してる?」
「愛してるわ!!貴方を陥れたのだって全ては真実の愛だったからよっ!!貴方なんかに負けない。私は全力で彼を愛しているのっ!!王子の奥さんだって憧れてたけど、なによ、王宮って地獄じゃない。みんな意地悪なのよ。私を軽んじて、時々、聞こえない振りするの。王子が傍にいない時は特に。だからそんな奴はみーんな王子に言いつけたの。いいザマだったはみんな解雇されて罰せられたわ。どうしてみんな私に冷たいのよっ!私は彼の妻よ!!敬うべき存在でしょ。大切にされたいの!!」
哀れな女は血を吐くように泣いていた。髪を振り乱して最後のクモの糸を掴むように縋る。
それをイルネーネルが慰めることはない。彼女を守る壁がないことは知っていた。
イルネーネルでさえ王子の婚約者と言うことで嫉妬や陰謀に巻き込まれてきた。
だが後ろ盾はあり、身を守るために幼き日から仕えてくれる盾がいたし、侍女がいた。
彼女は王宮でそういう心から守ってくれる人間がいただろうか?
それをイルネーネルが心配することはないが、事実と知っている事だけ胸に留め置く。
王子の妻となった彼女は故意に妊娠できなかった。
彼女の食事には毎食それらが混ぜられていた。王子がこれを知っていることはない。
誰の手のものかは多くの容疑者がいて特定は出来ない。それほど彼女は望まれていなかった。
理由は憶測でしかイルネーネルは考えられない。
ただそれは王宮では公然の秘密ながら実しやかに囁かれていた。
彼女は王子以外にもすぐに見目の良いものに目移りする。王家の作法にまったく関心がない。
彼女の父親は彼女が王妃になったならと嘯いてよからぬ輩と密接に関わっていたらしい。
そして更なる爵位の昇格も狙っていると知られていた。
彼女の侍女は見目が良いとすぐに解雇となる。王子の目に入るのがいやらしい。
そのくせ年配者が嫌い。口うるさいのが嫌い。いつでもお姫様でちやほやされたい。
相当周囲は気疲れしたことだろう。
決定的だったのは一切の王妃教育の拒否だろう。そして他国高官への暴言その他。
「貴方を救えるのはもう王子だけでしょう。貴方も分かるわね?王子に嘆願するしかないわ。
全て闇に葬って貴方をもう一度愛してと頼むしか手はないのよ。そうしなければ近いうち貴方はひっそりと毒を飲まされるでしょう。王家には貴方が死んで困る人はいないでしょうから…。」
「ひっ」
「これをあげるわ。とびきりの惚れ薬よ。貴方の生まれなら知っているでしょう?遊女がよく使うあれよ。それを濃縮したもの。これで彼を篭絡しなさい。嘗て貴方がしたように、ね。もう一度」
ピンクとも薄紫ともいえない粉薬をそっと手渡す。彼女はそれが何か瞬時に理解したようだ。
硬く手に握り締めた。それに頷く。
「もう一つ良いものをあげる。地図よ。王妃候補には昔から伝えられる避難用の脱出経路の地図よ。これは王の寝室に繋がっているの。王の寝室の暖炉から出られるわ。いい?今日は新月。闇にまぎれて私だとはじめは嘘をついてこれを水に混ぜて飲ませなさい。服も用意してある。今日ね、王子には会う約束をしているの。彼も油断するわ。そして狂わせてからもう一度、思い出させなさい。私よりも貴方を選んだあの日のことを。いいわね。これが最後よ」
「…どうして、これをくれるの。どうして助けてくれるの?」
彼女はイルネーネルから言葉が欲しいようだったがイルネーネルはそれには応えなかった。
「行きなさい。時間があるうちに」
シンデレラの夢が覚めないうちに_____。
翌朝、冷たくなった王子の隣に呆然とする王妃がいたと言う話を聞いてイルネーネルは笑った。
彼女に渡したのは一般的には毒ではなかった。ただ心臓に生まれながらの欠陥のある王子は避けたほうが良いとされているだけ。血の濃すぎる王家の血からは心臓に疾患を抱えて生まれるものは少なくない。それをイルネーネルは小さな頃に聞かされていた。今でこそその翳りはあまり見受けられないが、酷く興奮することなどは注意されていたはずだ。
あれは心臓にダイレクトで負担をかける。最愛の女性と言った女性の腕で死ねた幸せな男に
イルネーネルは暫し追悼と贈った。
一人の女を不幸にしてまで手に入れた愛を、ただの熱病だと気の迷いだと蔑んだ男。
シンデレラのように持ち上げられて男に翻弄されて惨めに泣き縋った女の姿。
もう一度、そこに引き戻されたくなかったイルネーネル。
きっと誰かがイルネーネルの行いに気付いても口を噤む。
いっても何の特にもならないから。それどころか王家と公爵家から命を狙われるだろう。
王家は持病の心臓病での病死だけ告げるだろう。傍に誰がいたかは伏せて、立て続けの不幸を
表向きは大いに嘆いて、すぐに次の王太子を立てるだろう。王子の控えはいるのだから。
「この国を出ましょう。この国にはいい思い出がないのだから…。」
「やっと折れてくれましたか、お姫様」
いつもの公爵家のお使いに来ていたイルネーネルの護衛の騎士が姿を見せる。
何もかも知った上で騎士は彼女を労わった。
「熱い国が良いでしょうか?寒い国にしますか?」
「そうね…。」
※即興で掻いたからすぐに下げると思いますけど書いたんで載せてみました。
数時間仕上げ。ヤバイな…こんな雑な仕事しないって決めてたのに…。。
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