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ホラー映画のやさしさというのは、つまるところ人は死なないためなら何でもするという身も蓋もなさを諸手を挙げて受け入れてくれるところにあるのだろうなとあらためて思ってみたりもしたのである。それは柳下毅一郎氏の言う「広義には、すべての映画はセックス映画だとも言える」にも通じる人間の根っこのところにある欲望というか本能の追認でもあるのだろうけれど、それが“夫婦愛、親子愛、姉妹愛を一筆書きのように描けてしまえるホラーというジャンルの奥深さ(前作鑑賞時のメモ)”を可能にしているのは言うまでもない上に、少々そのことに拘泥しすぎたのかもしれないなと自省した監督がそれを『インシディアス』のデモニッシュなファンタジーでバックアップしたことによって、全方位への攻撃と防御をほぼ可能にしたホラー無双に開いた口がふさがらなかった次第である。クラシックなホラースタイルのアップデートを目指した『死霊館』シリーズでは、恐怖を与える直截的な対象はあくまでも登場人物であり観客を直接いじるドンガラドンのさらなる更新は『インシディアス』に任せてこちらでは切り札にしないというスタンスであったのが、今作ではまるで自身が開拓したホラーマナーを総括でもするような縦横無尽をみせていて、数年前に監督が公言した、もうホラー映画は撮らないよという宣言が頭をよぎってしまうほどの集大成に思えたのである。ドンガラドンの打ち上げ花火的な強度に拮抗させるためなのだろう、同一ショットですべてが起こるためのフレーム設計はさらに磨きがかかり、特にジャネット(マディソン・ウルフ)をめぐるショットでの彼女のぽつねんとした置き方とその空間の忌まわしさはジャネットの絶望を哀切に呼び続けていたし、『エクソシスト3』に端を発すると思われる横切り芸については『インシディアス』経由の積み上げがなかったのは残念だけれども、その代わりに一斉に家を飛び出したホジソン家が道を横切ってノッティンガム家に駆け込むショットの奇妙な祝祭感を見つけられたのは幸いだったのではなかろうか。(この際よその子のことなんかどうでもいいから)お願い行かないで!と泣き叫ぶロレイン(ベラ・ファミーガ)に、ごめん、後悔したくないから行かなけりゃならないんだ!と応えるエド(パトリック・ウィルソン)とのドア越しのシーンは、愛こそが恐怖を生むことを知らしめてロマンチストたるジェイムズ・ワンの面目躍如であったのは間違いない。それにしても、おもちゃの消防車が走ってくるだけでなぜあれだけ禍々しく鳥肌が立つのか、映画を映画たらしめるのはストーリーではなくストーリーテリングであることの格好の証となる名シーンだったのではなかろうか。エドのもみ上げが何に由来するのかまでタネ明かしされてしまうと、もしかしたら監督の脱ホラー宣言がいまだ有効なのかとそれだけが心配で心配で仕方がない。どこかしらジャック・ワイルド風なマディソン・ウルフ嬢がアメリカ娘であったのはちょっと意外な気もしたけれど、噛み締めた奥歯で涙をせき止めた彼女が実質的なMVPであったことは揺るぎがないのであった。