はらわたが煮えくり返っている。
運動の中でまた、性暴力が起こった。
わたしが運動にかかわったとき、そのときも、くずみたいな男たちが、女とセックスしたがった。批判したり、性暴力だと告発する女たちは「運動をつぶす気か」とののしられて、非難されていた。
そのときの状況は今も変わっていない。
男の醜い「甘え」が、性暴力という形になり、女の体と心を傷つける。
菅野完 - Wikipedia
ネトウヨが、良さそうなことを言って、人々の関心を誘って、自分たちの陣営に引き込んだ。
運動に右も左もないと言い、暴力も含んで、「暴力を使ってでも差別と闘う」といって、結局女を足蹴にした。暴力は、結局女を傷つける。
しかし、人は、暴力を使う人間を排除せず、その人間たちが主催するパレードやデモが日本を動かすと信じて、反差別、反原発、という言葉に誘われて、参加した。
このくずは、一人の人間の尊厳を踏みにじった。
運動関係者は、女でも男でも、彼をかばったという。被害者は、自分が悪いのかと沈黙を守っていた。
「運動をつぶす気か」という殺し文句が、一人の人間の心を殺そうとした。
そして、今も二次被害が始まろうとしている。
「ベストセラー『日本会議の研究』で話題の菅野完氏が性的暴行で訴えられていた」というキナ臭い記事が週刊金曜日に出ておった。「公安に追われている」と怯えながらツイッターナンパした女性宅に入り、押し倒して無理やりチューしたとかナントカ pic.twitter.com/pScvGiY0Sl
— Arai Kaoru (@araikaoru) 2016年7月14日
キナ臭い記事だなあ。週刊金曜日は最近『日本会議と神社本庁』という本を出したわけで、『日本会議の研究』菅野完氏とは共闘すべき相手なのに。アンチ日本会議どうしで内ゲバやってるんだなあ
— Arai Kaoru (@araikaoru) 2016年7月14日
被害を茶化して、内ゲバという。内ゲバではない。これは、魂の戦いだ。性暴力で魂を殺そうとした、菅野という男に対して、暴力を使わずに、抗議すること、防御することのどこが内ゲバだというのだろう。
内ゲバという言葉に矮小化して、茶化して、「チュー」という言葉を使って、被害を見えなくさせようとしたり、好奇心で、安易に触れることはすべてセカンドレイプだ。
女はレイプされ、セカンドレイプされる。その過程で、心身ともに傷つく。告発することで、「淫乱」「誘ったのはお前」「黙っていればいい」と言われる。
告発されることは不都合なのだ。
菅野のようなネトウヨが大事にしているのは、家父長制だから、たとえ、慰安婦問題にかかわって、口触りのいいことを言っていたとしても、本心では女の人権や女の意見を尊重していない。
尊重していない人間が、こうした事件を起こすことも当たり前だ。それを後押しして、サポートしてきた周りにも責任がある。
数の圧力で、レイプされかかって、傷ついた女が、必死の声を振り絞って出した叫びは、封印される。
この事件は黙殺されてはならない。菅野というネトウヨは、残念ながら、一つの勢力である。
「お前とセックスしたい」「口説いていいか」というのは、「命を狙われている」と言われ、「作業するのにパソコンを使いたい」と言った、趣旨と反している。
反しているが、家に入れてもらったから、ヤれると思ったのだろう。同意のないセックスは、すべてレイプだ。家に入れることと、セックスすることの合意はイコールではない。
それをはき違えた人間が、こうして、人権を訴えている。本当に反吐が出そうだ。
女は、暴力を振るわれたとき、殺されないように、穏便な対応を取らざるを得ない。
その後も、自分が悪かったのか、隙があったのかと自分を責め続ける。
それを逆手にとって、「穏便に済ませるような態度をとったのだから、友好的だと判断した」とレイパーたちは言う。
必ず言う。絶対に言う。
しかし、性暴力被害者は、「まず殺されないこと」「次に犯されないこと」を考える。考えるしかない。そして、そうした行動をとる。
その、命を守るための防御反応すら、レイパーたちの弁明に使われてしまう。
菅野には倫理観がない。
倫理観のない男が、人権問題にかかわり、そして、発言権を持って、二万三千人のフォロワーの支持を受けている。
その下で、被害者は殺され続ける。魂や精神、ストレスでの体の反応を、「因果関係がない」と言って、切って捨てる。
やったことはやったことだ。絶対に消えない。やった側には一瞬のことだったかもしれないが、被害者にとってはそうではない。大きなストレスを、反応として、起こす。それをなかったことにする。卑怯だ。反省とは、自分のしたこと、その上の影響を、認識して、受け止めて、そのうえで謝ることではないのか。言い訳することではない。謝罪の名の下で、自分は悪くなかったと、付け加える神経は、人間として認められない。
「仕事や社会運動等で多忙かつ危険な状態に追い込まれており、理性的な対応ができず」「押し倒すなどの性的な行為」を働いたとあるが、多忙だったら、性暴力をふるっていいのか。被害者宅で、犯罪の記録が残らないタイミングで、性暴力に及んだのは、「理性」が「この状態なら証拠を残さず、相手を犯すことができる」と狡猾に判断した結果ではないのか。
レイプは、性欲が原動力で行われるのではない。それは、すでに明らかにされていることだ。
レイプは、性欲ではなく、相手を支配し、虐待することを目的に行われる。
権力の問題だ。
この謝罪という名の、セカンドレイプは、そのことを表している。これは、謝罪ではない。言い訳だ。
菅野の出した、謝罪文そのものが、被害者を新たに傷つけるセカンドレイプだ。
こんな言い訳を、被害者の耳に届かせる菅野は全く反省していない。
性暴力をふるう人間は常に「理性的」なのだ。
そして、弁明では「理性を失っていた」と言ってのける。
そして、また、新たに謝罪のていを装って、被害者を追い詰める。
「因果関係が認められない」と言ったのは弁護士で、自分の主張ではない、というならば、裁判の場で何を信じればいいのか。
公の場でもうそをつく、菅野をいつまで人々は信じるのか。
自分の犯罪行為を被害者のせいにし、裁判での主張を「弁護士が言ったこと」という卑怯者の言い分をいつまで認めるのか。
菅野は、暴行後も被害者が「友好的」だったと答弁書で述べている。
この屑は何もわかっていない。命を守る防御反応を自分に都合よく解釈する、気持ちの悪い屑だ。
わたしは、被害者の叫びに共感する。
最大限のことをしたい。
noiehoieよ、永遠に消え去れ。