※このエントリーには仙田学「愛と愛と愛」のネタバレを含みます。
どんな本を華が読んできたのかということよりも、どのように読んできたのかということのほうが洋治の記憶には残った。中学二年生の頃に塾を辞めてからの生活。家庭環境や友人関係。休日は何をして過ごしているのか。何ひとつ華のことを知らなかった。だが本の読みかたを知ったことで、まるでどのように生きてきたのかを知ってしまったかのようだった。
仙田学,「愛と愛と愛」
会社に行かなくてよくなったので、文芸誌をまた読める時間と心の余裕ができて、さっそくこの前に出た文藝を読んだ。「愛と愛と愛」はとてもおもしろかった、160枚の小説を、徹底して物語で埋め尽くしているような印象を受けた。なぜそのような書き方になったのかを考えた時、上に引用した文章がぼくの頭に残っている。このことについて、さっきから考えている。
あらすじ
アルコール依存症で学生時代から人生を損ない続けてきた洋治の前に、かつて勤めていた学習塾の生徒だった華が現れる。厳しい生い立ちで育ち、理不尽なことをする継母から別れても、兄が起こした事件によって不遇な目に何度もあう。そして彼女は語る。
「そもそも私何もしてなかったんだとしたら、あれは罰じゃなかったってことになりますね。でも悪いことをしてないなら、赦されることもないはずですよね。タイムパラドックスみたい」
(中略)
「そこから這い上がるには、彼女から赦されたって事実がどうしても必要だったんですよきっと。何も悪いことをしていないのに赦されるわけにはいかないから、って必死で罪を探したんです」
仙田学,「愛と愛と愛」
逆転した「罪と罰」
この小説のなかには、行きずりの他者の凄惨な物語が多数ねじ込まれる。ねじ込まれる、とここに書いたのは、語り手が他者の物語に能動的にアクセスするのではなく、自助サークルのひとの罪を自覚しているひとびとが赦しをもとめてじぶんでないひとに罪を告白する。カウンセリング的には、「過去の棚卸」をするというプロセスになるのだけれど、ここでの声は他者に理解を求めていない、あくまでじぶんが赦され、更生するための発話だった。自助サークルのひとたちはそれを自覚的におこなっているけれど、そこのメンバーでないたまたまいきあったおばちゃんもまた、過去を語りだす。それは罪に対して無意識だけれども、やはりじぶんを理解してもらいたいという意図とはちがう、心の膿を絞り出すような発話だった。この小説ではとくに序盤、発話が物語環境の描写よりも圧倒的な分量で、そして地の文で描写される。ひとの発話を小説内の風景につくりかえてしまうことで、「声」 がこの小説の重心となる。
いっぽうで華は「声」をもたなかった。じぶんの罪が見当たらず、他者が罪を告白する声を聞くしかできなかった。しかしじぶんがいまふしあわせだという実感はあって、それゆえに罪の意識だけが影のようにある。しかしそれをどうやってとりのぞけばいいのかがわからない。
罪はじぶんが犯した行動の結果であって、罪をもっているということは個々人がすこしずつ持っているずるさのあらわれのようにかんじられた、たとえばアルコール依存症の洋治は、復職してからも華に隠れて酒を飲んでいるように、現実のなにかからの快楽的な逃避というずるさなのかもしれなかった。
しかし、仕事をどれだけ変えて兄の事件から逃げることは華にとっての逃避じゃなかった、そこには快楽もずるさもなくて、逃げずに兄と向き合おうとしても兄の方が華から逃げる。能動的な物語への関与を、そもそも拒まれてしまう。あらすじであげた華の発言は、いわばその苦しみの告白であり、そこで初めて華は「声」を持つことができたようにかんじられた。
途中、この記事の冒頭に引用した華の読書観や、ゴーゴリの戯曲「結婚」についての言及があるように、この小説は物語そのもののプロット(=過去にどんな経験をしてきたか)ではなく、人間である以上、けっして変えることのできないそれらに対していかに向き合うかに集中して、深部まで掘り下げられている。
なにかの文学賞をとってほしいなあっておもえる作品でした。
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