吐き気がする、と言ってみても実際にはなにものも吐くことができないじぶんを嫌悪している。わたしは残念ながら真っ当で健康で、ちっとも文化的ではなくうつくしいだけの脳味噌を後生大事に頭蓋のなかに閉じ込めてただただ痛みにばかり敏感だった。ついつい、しにたい、とあまりにかんたんにいってしまうけれどしにたいという感情はそのくらいかんたんでかるくてわたしはぜったいに生きていたい。めんどうなことがきらいだ、傷つくことがきらいだ、めんどうなことも傷つくことも厭わずに生きるひとを羨ましく思い、でもやっぱり羨ましく思う以上のことはなにもしたくない。これは、つまらないしごとの愚痴だ。しごとの愚痴がつまらないのはしごとの内容のせいでも愚痴るための語彙のせいでもなくて語り手の怠惰で浅薄な性質によるものだ、くそ、しごとは残念ながらつまらなくない。いやだ、しごとなんて実利に直結しているから退屈でくだらなくてでもつまらなくないとは思えるわたしはもっともっと退屈でくだらなくてつまらない人間関係に、恋愛に、うそ、嘘嘘嘘、性欲というほどのものでもない、ただ、一度寝てくれた男への執着心だけでぬめる頭蓋の内側が満ち満ちていて、しにたい。つまらない。
たとえば、とくに理由もなく、上司とは寝てしまう女なのであればよかった。上司であれば、無条件で寝てしまうような女でいたかった。だから、だれでもすぐに抱いてくれそうな、すでに部下とは全員寝ていそうな、あのひとが上司になったとき、わたしはぜったいに彼と寝るのだと決めた。わたしはこのひとと寝るために、この会社にはいり、社長に直訴してまでこの部署に異動してきたのだと思った。上司と寝たために前の会社をクビになったことすら、この男と寝るためには必要なステップだったのだという気がしていた。彼と寝ることがわたしのゴールだった。寝たあと、どうなってしまうかなんて考えてもみなかった。うそ、嘘、寝たらきっと、執着心が芽生えることを知っていた。一度、抱いてもらうと、また抱いてくれるのじゃないか、抱きながら囁いたあのことばは愛だったのじゃないか、いや、愛じゃなくてもいいから、またあのことばを耳元で囁いてほしい、そう、わたしを抱きながら、その瞬間だけはわたしはわたしを肯定できるから。上司がわたしを抱くことと、わたしのしごとを評価することとはまったくべつの完全に切り離された出来事であるのに、わたしはわたしのこころと、めんどうだと言いながら深夜まで働き、深夜まで働くくせにやっぱり努力はどうしたってできないわたしを突きつけ毎日吐き気を催させるしごとと、わたしのからだと、あなたの性器を切り離して理解することができずに抱かれればそれらのすべてが肯定されるのだと思えた。抱かれている、ほんの一瞬の間だけは。
セックスをしおえたあとの人生は、終わったセックスを振り返り生きるだけだ。セックスが気持ちよかったことなど一度もなく痛みや不快感にたえるばかりであるのにまるでAV女優のように過剰に声をあげ腰を振りすっかり疲弊したころにはまたセックスがしたくなっている。そうしてセックスなんてめんどうなことしなければよかったと思いながらまた男に抱かれる、こと、を繰り返し、というほどには繰り返せていないけれど。結局わたしはデブでブスでセックスをする機会があまりないから一度のセックスに、一人の男に執着してしまう、それだけだ。
彼の担当する案件は、あまりにひどい状態にあった。少なくとも、5人くらいのチームでまわすべきしごとを、彼と、中堅の女性のふたりだけでやっていた。そして、ほとんど新卒に毛も生えていないようなわたしを上はぽんっと放り込んだ。あまりにひどい案件だった。忙しさを理由にすこしずつ歪むタスクはわたしのもとまで落ちてきたときに必ず壊れた。壊れたものを前に泣いたこともあったし壊れたものを渡してくるなんてひどいとぼろぼろになったしごとをそのまま彼に突き返したことも何度もあった。もう無理、と何度も思った。壊れたしごとばかりをまわされ、わたしはここでどうしてこんなに大事にされていないのだろうと思った。もう無理、もういや、どんどんしごとは雑になって、最初から最後まで歪んだものができあがっていた。歪んだわたしたちが。
もう無理です、と上司に告げた。もう、この案件はやりたくありません。
彼は、わたしがやれないのはわたしのマインドに問題があるからだ、という意味のことを話した。何時間も何時間も、泣きながらもう無理だと伝えれば、無理だと思わせたのは上に立っていたおれのせいだね、ごめんね、と謝るくせに、最終的にはすべてわたしの心の持ち様の問題とされた。たしかに、わたしの心には問題があったかもしれない。心を肯定されたいがために、もう無理だと思うわたしを肯定されたいがために、彼にもう無理だと言ったのかもしれない。心の問題じゃない問題なんて、世界にはひとつもないのに。彼は泣きじゃくるわたしの頭を撫でた。頭を撫でられながら、ああ、やっぱり、この男、かんたんに抱いてくれそう、と思った。
あまりにもわたしが泣きやまないので、終電の時間を気にし始めた彼は、とりあえず、来週飲みにいこう、と気休めを言った。
そして、わたしと彼はふたりで飲みに行った。何を話したかは覚えていない。このあと、どうやって抱かれようかと考えてばかりいたから。
店を出て、酔ったふりをして抱きついた。彼は勃起していた。デブでブスなわたしに勃起できる彼は、やっぱり運命の相手だったのだと思えた。わたしたちはセックスをした。
それから、わたしはあの日のセックスのことだけを考えて生きている。上司は、あの日のセックスのあとしばらくは優しく、相変わらずすぐにでも抱いてくれそうな態度でわたしにもわたし以外の女にも接していたのに、どうしてだろう、ここ数日、わたしとは業務上の会話すらきちんとしてくれない。あいかわらず案件は歪なままで、いったい何度わたしは彼にもう無理と言わなくちゃいけないのだろう、もう無理と言えばもう一度抱いてくれるのだろうか。