•  スポーツ報知では大型連載「あの時」を始めます。各スポーツの大記録達成の瞬間や著名人らの失意の時などを担当記者が再取材。当時は明かされなかった関係者の新証言やエピソードで、歴史的なできごとを再現します。

【あの時・男子バレーの奇跡】(5)非常識の延長線上にしか世界一はない

2016年6月7日15時0分  スポーツ報知
  • ミュンヘン五輪・バレーボール男子決勝、東ドイツを破り優勝を決め、胴上げされる松平監督

 ミュンヘンの会場は、東ドイツを相手にしても、ニッポンコールに包まれていた。72年9月9日、決勝の舞台はまるで、ホームのようだった。周到な準備をしていた。当時は弱小チームだった西ドイツ代表監督に松平の大学の後輩、加藤明が就き、日本のコンビバレーを教えた。五輪の数年前から1年に1度は、ミュンヘン近辺で、日本と西ドイツの親善試合を行い、日本のファンを増やしていたのだ。

 日本は第1セットを失ったが、慌てることはなかった。東ドイツのデータは、徹底的に分析していたからだ。当時、東ドイツとは国交がなく、日本に招くことも困難だった。だが、東ドイツと決勝で対戦することを想定した松平はどうしても、事前に試合をして相手のことを知りたかった。

 そんな時、東ドイツの展覧会があることを知り、「この関係者と一緒にバレーチームを来日させよう」と、その主催者を訪ね、承諾を得た。さらに、国交がないため、外相にアポなしで直談判。来日時の扱いなどで、OKを取り付け、試合は様々な角度から録画し、研究し尽くした。第2セットをわずか2点に抑えて取ると、金メダルポイントに向かって、進むだけだった。

 小柄な松平は、大男たちの手によって、何度も大きく宙を舞った。痛みが悪化し、自転車のチューブを腰に巻いてプレーした横田は、泣いていた。「人間的にも成長しないと、五輪で優勝できない。スポーツバカではだめだと、松平さんに教えられてきた。それは実感としてあった」と大古は当時を振り返った。

 海外遠征では、選手たちはその国のことを勉強して発表した。ガイドブックもあまりない時代に図書館や大使館を回って調べた。その民族性を知ることによって、相手国の特徴も分かるようになった。「ありがとう」「こんにちは」。その国の言葉も覚えた。「バレーを通じ、勉強したことは自分のその後の人生にもプラスになった。世界一の経験者として、心構え、目標の持ち方などを伝えていかなきゃならない」と現在、日本協会会長の木村。

 66年、松平は小学5年生の長男を不慮の事故で亡くした。長男がボール紙で作った筆箱には、メインポールに日の丸が描かれていた。長男の死後、「常識の延長戦上に勝利はない。非常識の延長線上にしか世界一はない」と突っ走り、長男の夢も実現した。松平が慶大時代につけていた背番号が書かれた布は、今はその筆箱の中に大事にしまわれ、自宅の仏壇の引き出しに眠っている。(久浦 真一)=敬称略、おわり=

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