【あの時・男子バレーの奇跡】(1)「あと2時間コートに立っていろ」
1972年ミュンヘン五輪で男子バレーボール日本代表が奇跡の金メダルを獲得した。準決勝のブルガリア戦で2セットを先行される絶体絶命のピンチにも、チーム一丸となっての大逆転勝利。決勝では東ドイツを破り悲願を達成した。松平康隆監督の下、世界一だけを目指した男たちの偉業の裏側に迫った。
72年9月8日深夜、中学生の私とテレビを見ていた父は「もう負けだ」と言って、寝てしまった。金メダルを宣言した男子バレー日本代表が、準決勝でまさかの大苦戦。ブルガリアに2セットを先に取られてしまった。日本は64年東京で銅、68年メキシコで銀を獲得、金メダルの期待が高まっていたが、もうそれも風前のともしびのように思えた。
お家芸の速攻が決まらない。ブルガリアのエース、ズラタノフに強打、速攻を次々にたたきつけられた。「戦法を変えてきた。ズラタノフが真ん中から高いクイックを打ってきた。我々は泡をくった」とエース、大古は当時を振り返った。木村は「あれっ、あれっという感じだった。動揺していた」。
第2セットが終わり、浮足だっていた選手たちに松平監督は穏やかに言った。「あと2時間、コートに立っていろ。そしたら、おまえたちは勝てるから」―。「ものすごくいいアドバイスだった。そうだよな。こんなところで負けられないよな、と」(森田)。選手たちは冷静になれた。
松平監督は第3セット、4―7でセッターを猫田から嶋岡に代えた。それまで、ほとんど出場機会のなかった南、中村の両ベテランもコートに入った。サーブで崩されていた日本が徐々に、レシーブの名手によってリズムを取り戻していった。当時はサーブ権を持つチームに得点が入るルール。サーブレシーブが安定すれば、攻撃力を生かせるため、相手に得点を与えにくくなる。日本は我慢して、2セットを取り返したのだった。
だが、すんなりとはいかなかった。最終セットは、あっという間に3―9。ここで、松平監督は猫田を再投入した。2セット、ベンチで相手コートをじっくり見ていた猫田は、ブロックで狙われていた速攻を減らし、時間差と横田の強打を軸に展開を変えた。これが決まり出し、大古、森田の2人でブロックを決め、5―9としたところで、チーム全体は「いけるぞ」というムードに。一気に流れをつかみ、15―12でブルガリアを振り切り、3時間15分の激闘を制した。第3セットから約2時間コートに立っていた選手たちが奇跡を起こした瞬間だった。
視聴率58・7% 試合が終わった未明、私の隣家からは「バンザイ」という声が聞こえた。平均視聴率は58・7%(ビデオリサーチ調べ)を記録した。
金メダルへの道のりが始まったのは、東京五輪直後からだった。=敬称略=
(久浦 真一)