•  スポーツ報知では大型連載「あの時」を始めます。各スポーツの大記録達成の瞬間や著名人らの失意の時などを担当記者が再取材。当時は明かされなかった関係者の新証言やエピソードで、歴史的なできごとを再現します。

【あの時・男子バレーの奇跡】(1)「あと2時間コートに立っていろ」

2016年6月7日15時8分  スポーツ報知
  • ミュンヘン五輪男子バレーボール日本代表

 1972年ミュンヘン五輪で男子バレーボール日本代表が奇跡の金メダルを獲得した。準決勝のブルガリア戦で2セットを先行される絶体絶命のピンチにも、チーム一丸となっての大逆転勝利。決勝では東ドイツを破り悲願を達成した。松平康隆監督の下、世界一だけを目指した男たちの偉業の裏側に迫った。

 72年9月8日深夜、中学生の私とテレビを見ていた父は「もう負けだ」と言って、寝てしまった。金メダルを宣言した男子バレー日本代表が、準決勝でまさかの大苦戦。ブルガリアに2セットを先に取られてしまった。日本は64年東京で銅、68年メキシコで銀を獲得、金メダルの期待が高まっていたが、もうそれも風前のともしびのように思えた。

 お家芸の速攻が決まらない。ブルガリアのエース、ズラタノフに強打、速攻を次々にたたきつけられた。「戦法を変えてきた。ズラタノフが真ん中から高いクイックを打ってきた。我々は泡をくった」とエース、大古は当時を振り返った。木村は「あれっ、あれっという感じだった。動揺していた」。

 第2セットが終わり、浮足だっていた選手たちに松平監督は穏やかに言った。「あと2時間、コートに立っていろ。そしたら、おまえたちは勝てるから」―。「ものすごくいいアドバイスだった。そうだよな。こんなところで負けられないよな、と」(森田)。選手たちは冷静になれた。

 松平監督は第3セット、4―7でセッターを猫田から嶋岡に代えた。それまで、ほとんど出場機会のなかった南、中村の両ベテランもコートに入った。サーブで崩されていた日本が徐々に、レシーブの名手によってリズムを取り戻していった。当時はサーブ権を持つチームに得点が入るルール。サーブレシーブが安定すれば、攻撃力を生かせるため、相手に得点を与えにくくなる。日本は我慢して、2セットを取り返したのだった。

 だが、すんなりとはいかなかった。最終セットは、あっという間に3―9。ここで、松平監督は猫田を再投入した。2セット、ベンチで相手コートをじっくり見ていた猫田は、ブロックで狙われていた速攻を減らし、時間差と横田の強打を軸に展開を変えた。これが決まり出し、大古、森田の2人でブロックを決め、5―9としたところで、チーム全体は「いけるぞ」というムードに。一気に流れをつかみ、15―12でブルガリアを振り切り、3時間15分の激闘を制した。第3セットから約2時間コートに立っていた選手たちが奇跡を起こした瞬間だった。

視聴率58・7% 試合が終わった未明、私の隣家からは「バンザイ」という声が聞こえた。平均視聴率は58・7%(ビデオリサーチ調べ)を記録した。

 金メダルへの道のりが始まったのは、東京五輪直後からだった。=敬称略=

(久浦 真一)

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