【石坂浩二 終わりなき夢】(26)劇団旗揚げNZで公演
私は自前の劇団などで15本ほど芝居をやっていて、30歳ぐらいの頃から自らの劇場を持ちたいとずっと機会を探っていた。小さい劇団は上演できる劇場を探すのが大変で、手頃の値段だと使い勝手や設備が悪かったりする。いつも決まった劇場で上演できれば、舞台の間尺や人の流れも分かるから演出、芝居ともやりやすい。小劇団にも安く貸せたらという思いもあった。
バブル全盛期、私が37、8歳の時に都心にマンションなど何棟も建てる人が現れる。この方とは新宿で一緒に飲む仲になり「私は芝居は知らないが応援する」と意気投合。新宿に建てるビルの一部を劇場にする―。家賃はなしで実費だけ払うという約束で話はトントン拍子に進んだ。だが、しばらくすると先方が家賃を取ると言い出す。それでは劇場を安く貸し出しはできないから話はご破算になった。ショックだった。約束してくれた人も相当だまされたようで、バブル期はいろんな人間が蠢(うごめ)いていたのだ。
劇場は頓挫したが劇団への思い入れは変わらず、88年に「劇団急旋回」を旗揚げした。研究生応募に100人ほど希望者が集まったが、彼らに演劇界の実像を聞いてぞっとする。いろんな人や団体がミュージカル学校や演劇教室を設立、運営していたが、教材費や授業料を一括前払いは当たり前で30、40万円ほど納めると3か月後には倒産する繰り返しだ。私は研究生から1円も取らなかった。これに講師の先生方が燃えて「あんたたち、どれだけ恵まれているのか分かっているの」といつも言ってくれていた。
劇団は90年にニュージーランドのクライストチャーチで公演した。それまで友好行事に登場するのは太鼓や日本舞踊がメインで、これだけでは日本が誤解されると思い、ミュージカルを持って乗り込んだ。輸送費や宿泊費を持つスポンサーがいる約束だったがいつの間にか雲散霧消…。結局は4500万円くらい持ち出しになった。思い出に残っているのは小学生や中学生を招待した時だ。日本から持ち込んだ重量300キロのレーザー光線が威力を発揮した。スモークをたいて光線を当てると、幻想的空間が広がり、初めて目の当たりににした子供たちが目をキラキラさせていた。苦労はあったがやってよかった。
一度、(ビート)たけしさんに公演パンフレットにコメントをお願いしたら、「石坂さんの演劇熱は病気だから」と書いていた。しばらくたってたけちゃんに会った時「あなたの病気は映画でしょ」と言ったら笑っていた。劇団は本気に取り組む一派といいかげんな人間で軋轢(あつれき)を生んでまとまりを欠き、96年に休止した。ずっと演劇を携わってきたから残念な思いはある。(構成 特別編集委員・国分 敦)
俳優・井浦新(NHK「島の先生」で共演)「ドラマで親子をやらせていただいて以来、僕は石坂さんを“おやじ”と呼ばせてもらっています。おやじが現場にいると、いつも自然と輪ができる。いつも中心にいながら、役者たちを現場全体を優しさと厳しさとユーモアで包み込んでくれていた。芝居はもちろん立ち居振る舞いや趣味、生き方など僕はおやじからたくさん影響を受けた。頂いた言葉の数々は、仕事に生かし、僕の支えになっています」