【石坂浩二 終わりなき夢】(23)冬支度の長野で灼熱のビルマ
映画「ビルマの竪琴」(85年)で中井(貴一)君と共演した。「太閤記」の収録時、お父さんの佐田啓二さんが主演するドラマ「虹の設計」が別のスタジオで撮っていてお邪魔したことがある。当時、私は「佐田の若い頃に似ている」と新聞に書かれ、佐田さんも記事を目にしていたようで「君なんだね。なんとなく似ているかも」と言われたのを覚えている。奥さまは松竹の大船撮影所の正門近くの喫茶店の娘さんだ。その頃、私は松竹と年5本の出演契約していたので、大船に行くと「あそこの喫茶店か」と思ったものだ。
市川崑監督は中井君を56年版で主演だった安井昌二さんとイメージを重ねていたようで「いい、いい」と目を細めていた。ただ、映画は敗戦前後が話で、太っていては敗残兵の悲壮感が出ないから「痩せなよ」と、しきりに言っていた。原作はビルマだがミャンマーと名前も変わり軍事政権になっていたから、タイでロケをすることになる。再び監督の食事担当は私の仕事に。大きなガスバーナーが用意されたが問題は食材で監督の好物、いい牛肉は現地で手に入らなかった。考えた揚げ句、取材に来る記者にお願いし肉をこっそり日本から持ち込んでもらったのだ。その記者さんらがバンコクの船上の海鮮料理店で夕食を取ったら全員“大あたり”し、十何人も入院したこともあった。私は大丈夫だったが現地ではおなかをやられた人が続出。ロケに入って1週間ほどたって貴一君も犠牲になっている。それほど過酷だった。
20日間のロケ予定を15日で切り上げ、残りは日本で撮影することになる。中井君演じる水島上等兵と我々が橋ですれ違う場面―。ちょうどいい木の橋が長野にあった。11月で周囲は冬支度だが設定は8月の灼熱(しゃくねつ)のビルマ。夏の兵服で震えているところに「汗をつけろ」と顔に水滴が…。中井君は薄い僧衣1枚だから相当きつかったと思う。ラッシュで映像を見たら、みんなの唇が真っ青で監督も「これって編集で色が付くよな」とちょっと焦っていたくらいだ。この作品で中井君も相当鍛えられたと思う。翌年「鹿鳴館」で親子役を演じた時にはもう役者という感じで、自信がついたのか声が通るようになっていた。
監督と私は市川と石坂のIを合わせて「II(アイアイ)商事」なる親睦会をつくっていた。映画賞などで得た不労所得のお金をプールしてはパーティーを開く会で、監督が「貴一ちゃんも入りなさいよ」と勧誘し、メンバー入りしていた。パーティーでは監督自らが買い出しした賞品の福引が目玉。1等がルイ・ヴィトンのバッグといった高級商品で最低が正露丸と決まっていた。監督はイベント好きで私らも楽しませてもらった。(構成 特別編集委員・国分 敦)
俳優・中井貴一「石坂さんがタイから一時帰国をされた時、(市川崑)監督が僕を呼び『貴一ちゃん、わしにオムレツ作ってくれ』と言われました。当時、わたくし23歳。料理を全くしたことがないわけではなかったので、見よう見まねでオムレツを作ってみました。監督は『貴一ちゃんな、これはもうちょっとよく焼いてくれ。おれは硬いオムレツが好きや』と。連日、試行錯誤をして、やっと監督好みのオムレツを作れるようになりました。今まで料理には興味がなかったのですが、石坂さんが日本に帰ってくださったおかげでオムレツ作りがうまくなりました(笑い)」