【石坂浩二 終わりなき夢】(16)初の二科展出品で「嬉しい」入選

2016年5月3日10時30分  スポーツ報知

 自由が丘の駅前に遠縁の画廊があり「展覧会をやりたい」と相談するとあっさりとOKが出て、1972年に初の個展が実現した。私はもっぱら裸婦専門で、描いた絵が画廊の主人と懇意だった(日本画壇の大御所)東郷青児先生の目に留まる。「素人がヌードとは珍しい。デフォルメするにしてもまずは基本ができてないとダメだ。しっかりデッサンをやった方がいい」。知り合いの先生を紹介してくれて「裸婦像を一生涯通した人は少ないから、ぜひおやりなさい」と激励された。

 絵の歴史は疎開から始まる。疎開先の子供たちから“街っ子”とバカにされて遊んでもらえず、仕方なく家中で遊ぶしかなかった。世話になった家にたまたま画材があって4歳ごろには生意気にも絵を描いていた。戦後すぐは物不足で、クレヨンといっても色はあまり出ない。景気が上向いてクレパスがやっと出てきた時代だ。中学になると絵の上手な同級生に出会い「自分もなんとかうまくなりたい」と、ライバル心が湧いて彼が教わっていた目黒の画塾に通ってみたが、長続きしなかった。興味が絵から舞台に移ってしまったのだ。それでも、絵をずっと描いていたことは舞台セットを製作する時には役に立った。

 しばらく間が空き、絵を再開したのは結婚してから。それまでは水彩だったが、東郷先生から「油絵はやらないのかい。油絵を描いて二科展に出しなさい」と背中を押され、その気になった。二科展では水彩で入選するのは至難の業で、選ばれるためには油彩をやるしかない。水彩と全く違う技法を身につけるため、画匠の先生から基本的なことを教わった。油には透明度の違う絵の具があり、この違いで色を重ねて塗ると下地の色も生かすことができる。油彩の特徴が分かると、後は筆遣いの技術となるワケだ。

 74年に二科展に初めて出品して入選。正直、うれしかった。二科展にはいくつかの賞があり入選はまだ入り口の賞だ。作品がより評価されると500円玉ぐらいの丸い“賞”というシールが貼られ、これを何度か取ると会友になれる。その上の会員になって初めて、大賞や文部大臣賞など大きな賞を狙えるのだ。85年まで12年連続で入選したが、私は会友までだった。工藤静香さんが絵を始めたころ、彼女の音楽ディレクターだった私の従兄弟(いとこ)から相談を持ちかけられたことがある。その時に「二科展に出した方がいい」とアドバイスしたが、彼女は今でも出品しているから大したものだ。

 絵は毎日描いた方がいい。腕や指先の筋肉の記憶は3日間ぐらいで消える。スポーツ選手が毎日練習するのは、筋肉の記憶を消さないためだ。だから私は毎日ちょこちょこでも描く。これはプラモデルも同じことだ。

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