【石坂浩二 終わりなき夢】(14)求めてしまった仕事と家庭の両立
浅丘さんを初めて両親に紹介したのは空港だ。テレビで石坂家と浅丘家の家族が旅行をして、どこかで合流する企画だった。旅の途中、ばったりと浅丘さんと一緒になったから家族に「付き合っている人はこの方だから」と伝えたのだ。ただ、祖母は洋画が好きで父親は芸能に興味がなく、母は映画を見ない。大スターを前に、あまりよく分かっていなかったようだ。
結婚を抜いたのは芸能2誌。一つは「ヤングレディ」で、加賀まりことの件で手打ちをして以来、編集長と懇意になり「追っかけるのはやめてくれ、結婚する時には教えるから」と約束していた。もう1誌は浅丘さんの妹さんの旦那さんが勤めていた「週刊明星」。この結婚スクープが災いになり、他の芸能誌から恨まれることになる。事もあろうに結婚報道の出た週に「石坂浩二 水前寺清子と結婚か」。別の芸能誌は「吉永小百合と…」とやっていたから始末が悪い。その後に厳しい記事を書かれることにつながってしまったのだ。
挙式は赤坂の霊南坂教会で、披露宴は帝国ホテルだった。立会人は私の方は「天と地と」の原作者、海音寺潮五郎ご夫妻で先方は石原裕次郎さん夫妻。裕次郎さんが入院中で奥様のみが出席だった。森光子さんにはいろいろ相談に乗っていただいた。
2人とも役者を続けることは納得していたので、結婚後もそれなりに忙しかった。食事は作るのは私の方がうまかったけど、浅丘さんは総菜作りは上手だ。一緒に暮らして改めて感じたのは彼女の女優としての素晴らしさ。これまで菊田一夫先生を始め吉田直哉さんや浅利慶太さんらに教えを受けたが、みな演出家から見ての話だった。浅丘さんと話すと、なるほどと思うことが多い。彼女は若い時からスターになり、そこで生き残っていく試練を経ている。その中で工夫していたものがたくさんつまっているし、一緒の商売をやっている人間の話を聞いて納得することも多かった。
縁がなくなった原因…。最終的に言えば、私が結婚当初、浅丘さんに仕事と家庭の両立はしなくていいと言っていたのに、両立してほしいと思ったことだろう。両親が90歳近くなり家庭、家族というものを痛切に感じるようになった。若くして家を出て、両親が遊びに来ても一緒に暮らせる構えの家でないから泊まることもできない。母が体をこわしたこともあり両親と暮らしたくなったのだ。その際、彼女は両親とは暮らせないという感じでいた。役者をやめないと言ったし、ずっと女優をやっていく才能もある。私もそれがいいと思った。結婚30年目の2000年12月に離婚会見を開く。けんか別れではないから同席して事情を説明したのだ。
(構成 特別編集委員・国分 敦)
女優・浅丘ルリ子「離婚会見を提案したのは私。憎しみ合って別れたのではなかったので。兵ちゃん(本名・兵吉)は博識で思いやりある人。ずっとお仕事させていただいて感謝しています。美術館に行けば絵を一つずつ説明してくれ、疑問には百科事典を開いて教えてくれた。あの人は記憶力がすごくて忘れないけれど私は忘れちゃう。そこが違うのね」