【石坂浩二 終わりなき夢】(9)菊田一夫先生の誘いで帝劇へ
四季を退団してすぐ、東宝の重役で演劇界の大御所の菊田一夫先生とお会いした。すると「劇団をやめて、君はもう舞台をやめたのか」と。「いや、やめたワケではありません」というと「では帝国劇場に出てほしい」と出演依頼が…。私にとって先生はラジオドラマ「君の名は」の作家というイメージが強く、舞台を作っていたのをすぐには思い出せなかった。先生は「帝劇は丸の内に近いから、会社勤めの女の子のために世界文学全集をやりたい。舞台を見れば1冊の本を読んだ気持ちになれる。原作のいい部分を書いて舞台化したい」と熱心に語っていた。
しばらくたって宝塚歌劇団のトップだった那智わたるさんの退団が発表される。先生は退団前から彼女の舞台を構想して、時期を見計らっていたようだ。「石坂君、彼女の女優一発目の相手になってくれよ」といって実現したのが「マノン・レスコオ」だった。
那智さんはちょっと悪っぽい雰囲気があり、今までの宝塚にはいないタイプだった。とにかくカッコよくて、楽屋口の道に滑り込んでくる愛車に、ファンに手を上げながら乗り込んで去っていく―。車は真っ白のMGでスターのオーラが漂っていた。帝劇にも大挙ファンが押しかける。劇場前に人があふれ出し、楽屋口から出られないこともあった。その時、那智さんの親衛隊が「石坂さんは私たちが守りますから」。劇場の屋上から隣のビルの屋上を伝っては脱出を手助けしてくれたのだ。
先生から多くのことを教わった。まず「テレビから来た人がよくやるんだけど、うなずきや相づちはやめなさい」と言われた。「舞台で誰かがしゃべっている時は、お客はその人を見ているから、じゃまをするな」ということだ。さらに「舞台袖からの一歩目は客席から遠い足で出ること。そうすると、顔がちょっとでも客席に向くだろう。引っ込む時も同じだよ」「はける時は一気にはけるか、ふっと止まるかのどちらか。そこで何かを語るようにしないとダメだよ。それができれば、お客さんは君の名前をちょっとは気にする」。全ては「舞台の袖の向こうに何があるか、お客さんに印象を残すことが大事」という教えだ。(劇団四季の)浅利さんはこっちから見せようという気構えに対して、先生はお客さんに見ていただくという姿勢のように思う。先生の話を聞いて舞台に立つと、客席が見えるようになったから不思議だ。
「マノン―」は連日満員御礼で、追加も4日8公演組まれた。終わってから先生に「東宝においで」と言われ、部屋をのぞくと「これ、プレゼント」と言って机の中から世界一周のチケットをポイッと。「どこでもいいから行っておいで」
◆菊田 一夫(きくた・かずお)1908年3月1日、神奈川・横浜生まれ。73年没(享年65)。25年に萩原朔太郎らと出会い浅草国際劇場の文芸部に。33年に古川ロッパ旗揚げの劇団「笑の王国」の座付き作家になり、劇団が東宝所属になると東宝文芸部へ。作曲家の古関裕而とコンビを組み、数々のラジオドラマやテレビドラマなど世に送り出した。中でもミュージカルは草分け的な存在といわれている。代表作はラジオドラマでは「君の名は」「鐘の鳴る丘」、舞台では「放浪記」「敦煌」など。55年に東宝の取締役に就任。演劇部の総帥として帝劇・宝塚の原作・脚本・演出を手掛けた数々の名作を生んだ。その功績により75年から菊田一夫演劇賞が設けられた。