【石坂浩二 終わりなき夢】(7)「劇団四季」での多忙な日々

2016年4月20日10時30分  スポーツ報知

 「泥棒たちの舞踏会」に出演した後、浅利慶太さんから「ウチに入れ」とスカウトされ、卒業と同時に劇団四季に入所する。舞台でアイドル扱いされたものの、学生時代から台本を書いていたのでまだ物書きへの欲もあり、演出部に籍を置いた。四季の創設時は藤野節子さん始め、テレビの外国作品の吹き替え仕事が多く、顔を出すようになったのは影万里江さんのあたりからだったと思う。

 四季での私の仕事は演出助手として、浅利さんがベストの演出ができるようにするのが役目だ。いつも事がスムーズに運ぶように考えることが要求される。例えば昼飯の注文。稽古場のある参宮橋に浅利さんの好みの料理があるのは3軒しかなくて、この日食べたいと思う食事を判断し、出前が届いたのを確認すると、稽古を止めて「昼休みにします」。このタイミングが実に難しい。再開後は浅利さんが気持ちよくなって寝ることもあるので、進行に合わせて台本のページをめくっておくのも仕事だ。それに灰皿を投げるのも多くて、取りにいく頃合いも難しかった。

 「カラマゾフの兄弟」では本読みで5時間もかかり、浅利さんが「2時間半から3時間にまとめろ」と言われたこともある。それまで四季の台本の多くは、昔の本をそっくり写したものが大半で、調べてみると誤訳をしている部分も相当あった。ある作品では不明な部分を日仏文化協会や仏大使館に問い合わせ、大使館の方がわざわざ本国に伝えて確認までしてくれた。本当に感謝している。

 劇団での生活は体力的に厳しかった。朝から昼までテレビ映画の撮影をこなし、それから稽古場で演出助手の仕事、夜にはまた現場に行く―。家に帰る時間がもったいないから局の衣装部の部屋で寝る日々だった。私の出演料は劇団に入るから経営的には大きな柱で、加賀まりこも同じようにフル稼働。長野の大町に四季の保養所があるが、浅利さんは「あそこはお前と加賀まりこのおかげだ。2人とも行かせられなくて悪いね」っていっていたほどだ。

 ある時、浅利さんは新に「黒蜥蜴(くろとかげ)」のプロデューサーだった吉田史子さんらをマネジャーに雇った。彼女らはとても仕事ができたので私のテレビ出演は激増する。体は悲鳴を上げ、ついには「平四郎危機一発」(67年、TBS)の出演中に倒れ、虎ノ門病院で診察を受け胃潰瘍と診断された。この病気を境に四季をやめる決心をする。吉田さんに相談したら、加賀も同じ思いでいたようで「じゃあ一緒にやめよう」と四季を退団。浅利さんはやめる時「金を出してでも、演出助手としてずっと雇いたかった」と言っていた。

 ◆劇団四季 1953年に慶応大、東大の学生が中心となって設立。創立メンバーに元代表の浅利慶太、俳優の日下武史らがいる。主にフランス文学作品を上演していたが、日本テレビ系「ジャングル・ジム」の吹き替えに劇団として参加する。60年には法人化し、日生劇場の開設と運営に携わる。71年に越路吹雪のミュージカルをヒットさせ、79年に「コーラスライン」の成功を機に「CATS」「ライオンキング」「アイーダ」など海外ミュージカル作品の輸入上演で観客動員を拡大させた。現在、常設劇場は8館を数えている。

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