【石坂浩二 終わりなき夢】(1)授業さぼってラジオの仕事

2016年4月12日10時30分  スポーツ報知

 俳優・石坂浩二(74)の活躍は多岐にわたり、しかも常に第一線にいる。「天と地と」に始まりNHK大河ドラマの主演を3度務め、映画では「犬神家の一族」で金田一耕助シリーズを大ヒットさせた。さらに二科展は12年連続入選、絵本の翻訳や作詞をこなす多才ぶり。「ウルトラQ」や「シルクロード」ではナレーターで存在感を示した。現在も「相棒」シリーズに出演し、4月スタートのBSジャパン「開運なんでも鑑定団 極上お宝サロン」で司会を務めている。歩みを止めない石坂浩二が自ら半生を振り返る。(構成 特別編集委員・国分 敦)

 私が生まれたのは昭和16(1941)年6月、東京の銀座だった。芝居好きの祖母によく浅草に連れていってもらった。その頃の6区はのぼり旗が立ってにぎやかな中、いくらかお金出せば後で写真を送るという街頭写真屋という商売もあった。エノケンさん(榎本健一)の舞台も見たが、落語の寄席が好きで夢中で見ていたものだ。浅草通いが、芝居や芸事に興味を持った理由かもしれない。

 田園調布小学校から慶応普通部に進学すると、幼稚舎から来る連中の生意気さに驚いた。言うことが高尚で、ルネッサンスとかレオナルド・ダ・ビンチとか初めて触れる言葉ばかり。演劇の話題になった時、エノケンの話をしたら「それは大衆演劇で、今の演劇は新劇だ」とバカにされ、私の知らない話をする背伸び連中が山ほどいる環境だった。1年の修学旅行で日光に行った時「即興で芝居をやろう」となり、落語の「寝床」という演目を仲間で演じ、その流れが演劇部の立ち上げにつながった。それからずっと演劇との関わりが続くことになる。

 高校の演劇部は豪華だった。3つ上の市川猿翁(喜熨斗政彦)さんが、ご自宅からソファやテーブル、コーヒーメーカーなど持ち込み、立派な部室に仕上げてくれていた。コーヒーを飲む人も少ない時代で「すごい人がいる」と思ったものだ。この頃はラジオ局の仕事もしており、授業をさぼっては、部室でバイト用の台本を書いていた。

 ラジオは知り合いの日本短波放送の方に原稿を依頼されたのがきっかけで、番組が1か月2000円という低予算だったからDJも自分でやった。実家が洋盤輸入をしている友人がいて、一晩だけレコードを借りて流したことも。そんな中で、中村メイコさんの夫、神津善行さんがラジオドラマの原盤を作る制作会社を立ち上げる。当時は映画会社の五社協定があり、俳優はテレビ出演はできないけど、ラジオはOK。そこで番組を作っては地方局に売るという会社だ。400円のギャラも渋谷~浅草の電車賃が20円の時代で、台本で得たバイト料は、電車賃やら外食で消えた。

 大学に進学すると芥川比呂志さんらが設立した新劇研究会に入部。大学2年の時に「オセロ」をやることになり、舞台プロデューサーの吉田史子さんに衣装を借りに行った。出された条件は「貸す代わりに、部員の方は舞台のエキストラに出て下さい」。「安く借りられた」とみんな小躍りだった。後日、吉田さんから「『黒蜥蜴(くろとかげ)』をやるので、稽古から来て下さい」との連絡があり、ここから私の人生は一気にスピードアップしていく。

 ◆石坂 浩二(いしざか・こうじ)本名・武藤兵吉。1941年6月20日、東京生まれ。74歳。慶応大学法学部卒。大学在学中の62年に「七人の刑事」でデビューし、次作の「潮騒」から“石坂浩二”の芸名に。卒業後に劇団四季に入団。退団後にNHK大河ドラマ「天と地と」で初主演。72年に出演したTBS系「ありがとう」が民放ドラマ最高視聴率の56.3%を記録した。88年には自ら主宰した「劇団急旋回」を結成。2001年からはTBS系「水戸黄門」で4代目の水戸光圀を演じた。71年には女優の浅丘ルリ子と結婚も2000年に離婚。09年にNHK放送文化賞を受賞。11年4月から神奈川県交通安全協会の会長に就任している。血液型O。

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